◼️クリス・ヘッジズ「イスラエルのジェノサイドはホロコーストを裏切る」 Chris Hedges: Israel's Genocide Betrays the Holocaust, January 3, 2024 |
我々は皆、ナチスになり得る。ほんの僅かなことでそうなる。 悪、我々自身の悪に対する絶え間ない警戒の中で、我々はガザで大量殺戮を行っている者たちのように、怪物になってしまう。 おそらく最も悲しいアイロニーは、かつてジェノサイドから保護される必要があった民族が、今やジェノサイドを犯しているということだ。 |
We can all become Nazis. It takes very little. in eternal vigilance over evil, our evil, we become, like those carrying out the mass killing in Gaza, monsters. Perhaps the saddest irony is that a people once in need of protection from genocide now commit it. |
今も昔も最も重要なことはこれだ。巷の善人のみなさんのなかにもナチスがいる。ファシストがいる。ヒトラーがいる。
ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。(船木亨『ドゥルーズ』「はじめに」2016年) |
ファシストとは束になることだ。群衆が集団になることだ。 |
群衆は枯れ葉のように渦巻く。男たちと女たちの集団は、磁場を動き回る鉄のやすり屑のように、くっつき合い、散らばり、少し先でまた集まる。La foule allait et venait, tourbillonnait comme les feuilles mortes. Les groupes d'hommes et de femmes s'aggloméraient, se dispersaient, se reformaient plus loin, comme la limaille de fer dans un champ magnétique. (ル・クレジオ「リュラビー(Lullaby)」『海を見たことがなかった少年』1978年) |
ツイッター(X)はある意味ではファシスト装置だ。クラスタ同士で束になり他のクラスタの排除に陥りやすい。 浅田彰が巧いこと言っていた。 |
そもそも「都市」を認めない「トランプ村」の村人たちは「そんなものはマス・メディア村のフェイク・ニュースに過ぎない」と信じ込まされ、「事実」や「真実」の歯止め(カール・ポパーの言う反証主義の意味で)を失った言語ゲーム(「ああ言えばこう言う」という言語のレヴェルでの言い合い)のエスカレーションの中で、「マス・メディア村」への不信と憎悪を募らせるばかりなのだ。トランプの支持率が全体で4割前後なのに共和党支持者の間では9割近い高水準を保っている異様な政治状況の背後には、都市の広場(アゴラ)という共通の土俵の上での論争ではなく、そもそも土俵を共有しない村同士の部族的(tribal)な対立が全面化してきたというメディア論的変容があるのではないか。(浅田彰「トランプから/トランプへ(3)マクルーハンとトランプ、あるいはマス・メディア都市に対するトランプ村」2018年10月20日) |
土俵を共有しない村同士の部族的な対立の全面化とあるが、これはまさに現在の日本ツイッター村の様相である。もちろん粛々と徒党を組まずに情報提供をしている人もいるが、それでは影響力が出ない。 |
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ラカンはこう言っている。 |
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フロイトの集団心理学は、ヒトラー大躍進の序文である。人はみなこの種の虜になり、群衆[foule]と呼ばれるものが集団への囚人、ゼリー状の囚人になるのではないか? FREUD …la psychologie collective…préfaçant la grande explosion hitlérienne…pour que chacun entre dans cette sorte de fascination qui permet la prise en masse, la prise en gelée de ce qu'on appelle une foule ?(ラカン, S8, 28 Juin 1961) |
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群衆が集団になることだけで人々はファシスト化する。 フロイトは先に掲げたル・クレジオと似たようなことを記している。 |
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偶然に吹き寄せられたような人間の群れの仲間[Mitgliedern eines Menschenhaufens] が、心理学的な意味での集団に類したものを形成するには、これらの個人たちが相互に何か共通なもの、つまりある一つの対象にたいする共通の関心とか、ある状況の中で、おなじ方向にむかう感情とか、そして(その結果と私はいいたいが) 相互に影響し合うある程度の集団成員相互間の影響とか、これらのものを共有していることが条件として必要になる。 この共通性[Gemeinsamkeiten](この精神的な同質性 this mental homogeneity) が高ければ高いほどそれだけ容易に、個人たちのあいだから心理学的集団[psychologische Masse]が作られ、「集団精神[Massenseele](集団の心)」の現れはますます際立ってくる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第3章、1921年) |
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この群衆を結びつける共通性をフロイトは「自我理想」と呼んだ。 |
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原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年) |
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自我理想は指導者のなかに具現化された集団の理想と交換される[Ichideal…es gegen das im Führer verkörperte Massenideal vertauscht.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年) |
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まだポジな理想であるだけならマシだがーーフロイトはこの自我理想としてキリストや軍司令官を事例に出して父の代理[Vaterersatz]としている[参照]ーー、ネガな理想でも人々は結びつく。
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というわけだが、この話は特に宇露戦争勃発後に何度も繰り返しきた。私にはロシア絶対悪で結びついた日本の国民集団がファシズムに見えたのである。
伝統的にロシア(ソ連)に対して悪いイメージが支配する日本の政治・社会がロシアのウクライナに対する武力侵攻に対してロシア非難・批判一色に染まったのは、予想範囲内のことでした。しかし、一定の肯定的評価を得ている学者、研究者、ジャーナリストまでが一方的な非難・批判の側に組みする姿を見て、私は日本の政治・社会の根深い病理を改めて思い知らされました。〔・・・〕日本の政治・社会の際立った病理の一つは、「赤信号一緒に渡れば怖くない」という集団心理の働きが極めて強いということです。ロシア非難・批判一色に染まったのはその典型的現れです。(東アジアの平和に対するロシア・ウクライナ紛争の啓示 浅井基文 3/21/2022) |
最近では消費税絶対悪で結束したムラ人たちも同様にファシストに見えた[参照]。 最も注意しなければならないのは、ここから冒頭のクリス・ヘッジズの云う《我々は皆、ナチスになり得る。ほんの僅かなことでそうなる。悪、我々自身の悪に対する絶え間ない警戒の中で、我々はガザで大量殺戮を行っている者たちのように、怪物になってしまう》までは半歩しかないことだ。この誰にでもなり得る悪をハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ(banality of evil)」と呼んだ。 |
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最後に信者の共同体というファシスト装置について三人の書き手の記述を掲げておこう。
わたくしには、人々に雷同する強い傾向があります。わたくしは生れつきごく影響されやすい、影響されすぎる性質で、とくに集団のことについてそうでございます。 J’ai en moi un fort penchant grégaire. Je suis par disposition naturelle extrêmement influençable, influençable à l’excès, et surtout aux choses collectives. もしいまわたくしの前で二十人ほどの若いドイツ人がナチスの歌を合唱しているとしたら、わたくしの魂の一部はたちまちナチスになることを、わたくしは知っております。これはとても大きな弱点でございます。けれどもわたくしはそういう人間でございます。生れつきの弱点と直接にたたかっても、何もならないと思います。 Je sais que si j’avais devant moi en ce moment une vingtaine de jeunes Allemands chantant en chœur des chants nazis, une partie de mon âme deviendrait immédiatement nazie. C’est là une très grande faiblesse. Mais c’est ainsi que je suis. Je crois qu’il ne sert à rien de combattre directement les faiblesses naturelles.〔・・・〕 |
わたくしはカトリックの中に存在する教会への愛国心を恐れます。愛国心というのは地上の祖国に対するような感情という意味です。わたくしが恐れるのは、伝染によってそれに染まることを恐れるからです。教会にはそういう感情を起す価値がないと思うのではありません。 わたくしはそういう種類の感情を何も持ちたくないからです。持ちたくないという言葉は適当ではありません。すべてそういう種類の感情は、その対象が何であっても、いまわしいものであることをわたくしは知っております。それを感じております。 |
J’ai peur de ce patriotisme de l’Église qui existe dans les milieux catholiques. J’entends patriotisme au sens du sentiment qu’on accorde à une patrie terrestre. J’en ai peur parce que j’ai peur de le contracter par contagion. Non pas que l’Église me paraisse indigne d’inspirer un tel sentiment. Mais parce que je ne veux pour moi d’aucun sentiment de ce genre. Le mot vouloir est impropre. Je sais, je sens avec certitude que tout sentiment de ce genre, quel qu’en soit l’objet, est funeste pour moi. |
(シモーヌ・ヴェイユ書簡--ペラン神父宛『神を待ちのぞむ Attente de Dieu』所収) |
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信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。 もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容になりがちである[Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年) |
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魔女狩りが宗教戦争によって激化された面はあっても二次的なものである。この問題に関してだけはカトリックとプロテスタントがその立場を越えて互いに協力するという現象がみられるからである。互いに相手の文献や記述を引用しながら魔女狩りの根拠としてさえいる。さらに教会人も世俗人もともに協力しあった。つまり魔女狩りは非常に広範な ”合意" "共同戦線"によって行なわれた。そして組織的な警察などの治安維持機構のないところで、新知識のロー マ法的手続きで武装した大学卒の法官たちは、民衆の名ざすままに判決を下していった。市民法のローマ法化たとえばニュルンベルク法の成立と魔女狩りの開始は時期を一にする。 法官は、サタンが契約によってその軍勢である魔女をどんどんふやして全人類のためのキリストの儀牲を空無に帰せしめようとしている、と観念した。多くの者の危機感はほんものであり、「焼けども焼けども魔女は増える一方である」との嘆声がきこえる。独裁者が被害妄想を病むことは稀れでないが、支配階層の相当部分がかくも強烈な集団被害妄想にかかることは稀れであって、次は『魔女の槌』に代わって四〇〇年後に『我が闘争』をテキストにした人たちまで待たなければならない。法における正義を追求したジャン・ポーダンのような戦闘的啓蒙主義者が、同時に苛烈な魔女狩り追求者であったことをどう理解すべきであろうか。おそらく共通項は、ほとんど儀式的・強道的なまでの「清浄性」の追求にあるだろう。世界は、不正と同じく魔女のようないかがわしく不潔なものからクリーンでなければならなかったのである。死刑執行費がか遺族に請求されたが、その書類の形式まで四O○年後のナチスと酷似しているのは、民衆の求めた祝祭的・豊饒儀礼的な面とは全く別のシニカルなまでに強迫的な面である。また、科学に類比的な面もないではなかった。すべての魔女を火刑にする酷薄さには、ペストに対してとられた、同様に酷薄な手段、すなわち患者を放置し患者の入市や看護を死刑をもって禁ずるという方法が有効であったことが影響を与えているだろう。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、p128) |