このツイートはシャドウバンされているようだな、
僕も以前、日本のウクライナ化に絡んで、《おい、なんでわかんないんだ、日本国民のみなさんって?》と記したことがあるがね➤ 「ヘグセス発言に対する日本国民の「不思議な」静けさ」
ま、実に呑気なんだよ、キミたちは。僕は殆ど宿命だと諦めつつあるがね、➤「 米国の日本捨て駒化作戦の罠に嵌る「愚かな宿命」」
知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと、この知性の弱さは一種独特のものである。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めない。しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、おそらく無限の未来のことというわけではない。 |
Wir mögen noch so oft betonen, der menschliche Intellekt sei kraftlos im Vergleich zum menschlichen Triebleben, und recht damit haben. Aber es ist doch etwas Besonderes um diese Schwäche; die Stimme des Intellekts ist leise, aber sie ruht nicht, ehe sie sich Gehör geschafft hat. Am Ende, nach unzählig oft wiederholten Abweisungen, findet sie es doch. Dies ist einer der wenigen Punkte, in denen man für die Zukunft der Menschheit optimistisch sein darf, aber er bedeutet an sich nicht wenig. An ihn kann man noch andere Hoffnungen anknüpfen. Der Primat des Intellekts liegt gewiß in weiter, weiter, aber wahrscheinlich doch nicht in unendlicher Ferne. |
(フロイト『ある幻想の未来』第10章、1927年) |
大衆は怠惰で短視眼である。大衆は、欲動を断念することを好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題をする。 |
denn die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit. |
(フロイト『ある幻想の未来 Die Zukunft einer Illusion』第1章、1927年) |
なんたって「今=ここ」文化だからな、 |
日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である。それは日本の文学的伝統や日常生活の習慣にも見られ、始めなく終わりない時間のことである。またそこにあるのは現在あるいは「今」だけだという意味で、もう一つの表象として循環する時間が挙げられる。循環する時間は、過去、未来、全ての時間の現代化を意味する。 そうすると時間の「全体」は、現在=今が無限に連なる直線、あるいは無限に循環する円周であると言える。これは日本文化の伝統が強調する現在集中主義が、全体に対する部分重視傾向の一つの表現と解することもできる。ここでは部分が集まると全体が現れる。 また「空間」においても、私の住む場所=「ここ」、つまり部分が先ず存在し、その周辺に外側空間が広がる。その外側の全体は、日本の伝統では強い関心の対象ではなかった。一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団領域を「ここ」として意識し、その「ここ」から世界の全体を見る。 こうした部分が全体に先行する心理的傾向の時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。こうした日本の全体に先行するものの見方は、「今=ここ」文化として今も根本的に変わってはいない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
より詳しくは➤「日本社会・文化の基本的特徴(加藤周一)」 |