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2025年8月1日金曜日

大半のツイッタラーがやっている「知の言説」と「ヒステリーの言説」の交換


 ラカンに言説理論というのがあり、通常「四つの言説(四つのディスクール)」(プラス「資本の言説」)として解説書に説明されているが、この言説の基礎構造は次のものだ。


人はみなこれをやってんだ。別の言い方をすれば、真理は抑圧されているが必ず回帰する(この言説理論に於ける抑圧とは、上に失策行為とあるように「後期抑圧」なので注意[参照])。

この基礎構造の上に四つの言説のそれぞれが乗る。



例えば、ツイッターで皆さんがやってるのは、主にヒステリーの言説と大学人の言説だね、ーー「大学」というが、教育装置の大学とはその事例のひとつに過ぎず、実際は専門家の言説、あるいは知の言説である。

で、ヒステリーのほうも誤解なきようつけ加えておけば、ラカン派におけるヒステリーとは次の意味である。


私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ[je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan, S24,14 Décembre 1976)


ラカンの弟子 GÉRARD WAJEMAN ははやい時期に既にこう言っている。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは発話主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な発話関係というよりは、発話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、発話主体はヒステリーそのものだ。

Normal hysteria has no symptoms and is an essential characteristic of the speaking subject. Rather than a particular speech relation, the discourse of the hysteric exhibits the most elementary mode of speech. Drastically put: the speaking subject is hysterical as such.

(GÉRARD WAJEMAN 「ヒステリーの言説(The hysteric's discourse) 」1982年)


[そもそもラカンの四つの言説はフロイトの三つの不可能な職業にヒステリーの言説をつけ加えたものである、《分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)]


で、問いは大学人の言説、つまり専門家の言説、知の言説だね。

現実的にはおおむねこんな具合になってんだな。


「知の言説」は自らのドグマを隠蔽して中立を装った言説であり、仔羊たちの眼差しに向けて語られる。とはいえよほどの馬鹿でない限り、抑圧されたものの回帰を感じ取り、分裂した主体、つまりヒステリーの主体が生まれる。で、循環運動が起こる。大半のツイッタラーはこれをやっているように見えるね。昨日投稿したミアシャイマーによる「専門家の言説」もこのヒステリーの言説を生んでいるよ、間違いなく。

ところでこの僕の投稿も知の言説だよ、一応ね。なんのドクマS1を隠蔽しているのかは言わないでおくがね。(なおドグマS1はフロイトの自我理想[Ichideals]でもある、《S1、ラカンが「主人」を指標化するものとして選んだこの最初の形態は、自我理想の核である。Le S1, qui est quand même la forme initiale que Lacan a choisie comme indiquant, indexant le maître,…qui est le noyau de l'idéal du moi.》 (J.-A. Miller, Tout le monde est fou, 16 janvier 2008))

…………


※附記

上では割愛したが、政治家の言説は基本的には主人の言説である。



分裂した主体を隠蔽して「確固たる主人」として専門知に向けて発話する(ヘーゲルの「主人と奴隷」がこの図式の背後にある)。だが思うような成果が生まれず剰余享楽としての糞便が排出され、循環運動が生じる(いまのトランプはこの典型的事例である)。

もっとも現在の政治家は先の大学人の言説(知の言説)の場合が多い。日本はもちろんのことヨーロッパの政治家にもそれは現れている。



分析家の言説については、もちろん分析治療の場が主だが、ジジェクがソクラテスの「プロソポピーア」の事例を出しつつ、理想を語る夫に対する妻の沈黙がときに分析家の言説として機能するという話をしており、これはまさにその通りだろう。



ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。


ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。


会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。



ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。


この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。〔・・・〕


対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。


プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。〔・・・〕ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


分析家のポジションは声としての対象aだが、基本的には沈黙の声である、《ラカンの命題は、沈黙することが対象aとしての声と呼ばれるものに値することを意味している。la thèse de Lacan comporte que c'est pour faire taire ce qui mérite de s'appeler la voix comme objet a 》(J.-A. Miller, Jacques Lacan et la voix, 1988)