このブログを検索

2025年8月30日土曜日

共同体の人間はみな末人

 

少し前、「「ホンネ」の共同体を超えて(柄谷行人浅田彰対話)」をいくらか長く引用したが、ここではその最後のパラグラフを再掲する。



◼️柄谷行人浅田彰対話「「ホンネ」の共同体を超えて」1993年6月『SAPIO』(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)

柄谷  ニーチェは「最後の人間」とか「末人」とか言ったけれど、僕は人間の大半は最初から「末人」だと思う。したがって、人間が人間であるのは、その状態を乗り越えることにある。いつでも、差異なり矛盾なりがあれば、必ずそれを意識して異議を唱えるような行為があるだろうと思うんです。だから、昔はほんものの人間がいたとか、今後はみな「末人」になるだろうとか、そういうふうには思いませんね。結局のところ、人間は構造のなかで生きているかぎり「末人」なんでしょう。自分の意思で行動しているつもりでも、実は構造に動かされている。それが根本的に変わるわけではない。しかし、そのことを意識することはできるし、それをきっかけとして構造からずれて行くこともある。だから、来るべきものとして「未人」を語るのは間違っていると思います。


浅田  そして、幸か不幸か、差異や矛盾は絶対になくならない。とすると、それをきっかけに構造からずれていく人間が絶対にいるはずなんですね。


柄谷  数多くはないだろうけれど、そういうものをあてにすることでしかものを書くことはできないですね、年をとってくると(笑)。


浅田  いや、言葉を紡ぐというのは、原理的にそういうことなんだと思いますね。

(SAPIO」一九九三年六月一〇日号・六月二四日号)



要するに、これは共同体の人間はみな末人だということだ。当時の柄谷は過激で懐かしいな。ツイッター眺めていると殆どみんな共同体の人間に見えるてくるがね。


(ニーチェは末人について「詩的に」書いているているので誤解を生みやすいが、いくらか読み込むと、柄谷の言っているように共同体の規範に去勢された善人の意味合いがある➤ ニーチェの末人[letzten Menschen]ヴァリエーション)。要するに《通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen]… 完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen]》 (ニーチェ『この人を見よ』)が末人である。)



で、これは基本的には『探究』で語られた文脈にあるんだろうよ。久しぶりにいくらか読み返してみたがね。



◼️柄谷行人『探究Ⅰ』第一章 「他者とはなにか」1986年

私は先に、デカルト的な懐疑と、デカルト主義一般を区別した。たとえばデカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。夢のなかの現実の方がめざめているときよりももっとはっきりしていることがある以上、いわゆる"客観的"であることが夢をみているのではないという証拠にはならない。だが、自分が夢をみているのではないかという疑いは、『方法叙説』においては、自分が共同体の "慣習”または”先入見"にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。彼は、それを、時間的・空間的な「旅」の経験から裏づけている。


デカルトは、もろもろの共同体においてそう信じられている諸真理は、それぞれの言語ゲームにもとづくものにすぎないという認識から出発している。いいかえれば、彼は差異性・他者性から出発したのである。「われ疑う」と「われ思う」は異質である。たしかに、疑うことも、思うことの一部である。ウィトゲンシュタインがいうように、疑うことは言語ゲームのなかで可能であり、言語ゲームの一部である。しかし、デカルトの懐疑は、彼自身がいうように、懐疑論ではない。


彼にとって、「疑う」ことは、自らが「思う」ことが共同体(言語ゲーム)に属しているのではないかと疑うことにほかならない。いいかえれば、疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。

デカルト主義は、この「疑う主体」を「思考主体」と同一視している。つまり、精神が思考主体と同一視されるのだ。だが、精神は、思考がそこに従属しているような共同体の外部へ出ようとするかぎりにおいてであり、その意味で「われ在り」(実存する)ということができる。実際に、デカルトはオランダに亡命して考えている。彼にとって、オランダは、マルクスにとってのロンドンと同様に、世界最大の商業都市であると同時に"砂漠"であった。つまり、デカルトは、諸共同体"間"、すなわち交通(コミュニケーション)の場所としての砂漠に立ったのである。

疑う主体は、自分が考えているから自分が在るというような思考主体とは無縁である。また、疑う主体は、自分にとって妥当することが万人に妥当するということを前提することができない。それは文字通り私的であり、単独者的である。いうまでもなく、デカルトは、コギト(我思う)の明証性は、それ自体では不確かであると考えたのである。pp. 10-11


◼️『探究Ⅱ』 第一部「固有名をめぐって」第一章「精神の場所」1989年

デカルトによる"精神"の論証は、読者に"精神"を要求する。彼は、自分の論証は、「先入見からまったく解放せられた精神を、自己自身を感覚との交わりから容易にたち切ることのできる精神を要求する」といっている(『省察』)。デカルトがいいたいのは、われわれが心をもち意識をもつといったことは"精神"であることの証明にはならないということだ。そのような意識または自己意識は、いわば"身体"なのである。

 

私は夢をみているかも知れない、幻影を見ているのかも知れないと、デカルトは疑う。しかし「人類学者」としてのデカルトは次のようにも疑いえただろう。私は考えているようにみえるが、それはそれぞれの共同体の慣習(制度・システム)のなかで考えさせられているだけではないか、と。いいかえれば、それは眼ざめなから夢をみていることではないか。PP.88-89


他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを"超越的"な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にも属さない空間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすようなメタレベルではありえない。夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることに変りはない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的な立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。むろん、どんないい方をしようと、デカルトの「方法的懐疑」が、もはやどんな立場でもありえない立場、《外部性》としての立場においてのみ可能であるということが肝心なのである。p90


われわれが「思惟」とよんだり「内面」とよんでいるものは、社会的な"慣習"(言語ゲーム)にすぎない。「私は考える」は、すこしも私的ではない。内的なものは、徹頭徹尾社会的(制度的)である。それは、デカルトのいう"身体"であって、"精神"ではない。P.92


われわれはある言語体系のなかで語っている。そのような言語体系は機械である。文化は機械である。「無意識は言語のように構造化されている」とラカンがいうのが正しければ、そのような無意識も機械である。機械という言葉を避けて、構造や関係システムといいかえることは、かえって欺瞞的である。そこにはまた何か「精神的」な色合いが付着しているからだ。P.94


※「無意識は言語のように構造化されている」➤惜しまれるおバカなラカン



ドストエフスキーは人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、"精神"であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである。P. 95


◼️『探究Ⅱ』 第二部「超越論的動機をめぐって」第八章「超越論的自己」1989年

デカルトにおいて、超越論的な志向を促したものは、各共同体においてちがったものが真理と思われているという事実である。あるいは、世界について普遍的に考えている(と思っている)人々が、共同体(システム)に閉じこめられているという事実である。《超越論的》ということは、この意味で、外部的であることだが、しかし、それは実際に共同体の外にあったりそれを超越していることを意味するのではない。共同体を超越して世界一般について考えることが、まさに共同体の内部に在ることなのだ。


超越論的な自己は、したがって自己意識ではない。自己意識は、たしかに自分の属している世界をこえる。しかし、それは反省にすぎず、つまり鏡像のなかにあるにすぎない。したがって、《超越論的》であることは、たんに自己関係(自己言及)的であるのではなく、共同的なシステムに対して自己関係的であるのでなければならない。P.178


◼️『探求Ⅱ』第三部「世界宗教をめぐって」第一章「内在性と超越性」

ここで、誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。pp. 201-202



……………



で、蓮實が言っているように、専門家も共同体の人間だろうよ、

蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)





柄谷)……たとえば、ポスト・モダニズムについてのリオタールの考えは、非常に荒っぽくいえば、「大きな物語」が死んだ、ということですけれども、そもそもキリスト教も仏教も「大きな物語」ですね。しかし、本来それは物語を解体するものだったはずです。 しかし、それは、物語を回復することで生きのびたし広がったのです。つまり、それは共同体の物語を再組織したわけです。共同体の道徳、善悪の区別を再建したといってもいい。


つまり、そこで働いているのは、共同体の要求ですね。 共同体は少しも死んでいない。抑圧されるのは、いつも"社会的"なものの方だった。アメリカがポスト・モダン倫理のため的だといっても、今一番強いのはキリスト教ですよ。つまり共同体の道徳の再建ということです。念のためにいうと、道徳は「共同体的」であり、倫理は「社会的」であると区別すべきです。

たとえば、マルクスは「"人間"とは社会的諸関係の総体である」といっているけど、総体ということを全体性だと考えてしまうと、これは"人間"(フォイエルバッハ)とか"精神"(ヘーゲル)というのと同じことでしょう。社会的諸関係の総体というときに、大切なのは"社会的"ということであって、けっして全体化できないということだと思うんですね。全体化すると、精神とか人間とかいうものになる。だから、マルクスのあの言い方は、全体性としての人間、精神、あるいはそういったものが成立しないという宣言だと思うんです。マルクス主義はそれを全体性にしてしまった。コミュニズムは"社会主義"ではなくて、〝共同体主義"(コミュナリズム)になってしまった。いつも共同体が勝ってきたわけです。だから「物語」は死んではいないわけですよ。相変わらず全体性は生きのびていると思う。 「人間は死んだ」、「大きな物語は死んだ」といっても、そのことはある意味でイエスや仏陀から言われてきていることであり、しかもいつも彼らの名を冠して生きのびてきているわけです。だから、そういうスローガンや宣告はもういいのです。そんなことはわかっているのですから。

そうすると、問題は、それがどう生きられるかというレベルになってくる。たとえば、ニーチェは『反キリスト』のなかで、「イエスのように生きたキリスト教徒は一人もいなかった」といっています。それがニーチェの本音だと思いますね。フーコーだってそうですよ。今パウロのような人物がいれば、フーコーは、エイズという十字架にかかって死んだのだ、彼はキリストだったのだと言いうるでしょう。ある意味で、エイズは世紀末を象徴する病ですからね。しかし、そんなことはフーコーに関係ないし、イエスも関係はない。しかし、彼らがもうスローガンにはならないようなことを語った、というより生きたということは明瞭です。

蓮實)僕にとってのフーコーの偉大さは、彼が知識人でありながら、生涯を通じて、何ひとつ指針らしいものを残さなかったことに尽きています。共同体に受け容れられるような行動の方針は一つも示さなかった。ただし、一貫して一つの闘争を戦いぬいていたのであり、そのことが指針といえばいえるかもしれない。それは何かというと、彼の戦いが、不快なものをめぐって、ただその一点をめぐって展開されたという点です。彼は、社会的な不正に対して正義の立場から戦ったのではない。ましてや、社会的な不正に対して戦う義務感など持っていなかった。僕の驚きは、正しくないことに対して批判を加えるべきだという知識人的な郷愁の徹底した不在です。たとえば、それをサルトルと比較してみれば明らかでしょう。サルトルの倫理は、彼の正義の理念と切り離しえない。

不快さに対するフーコー的な戦いというのはまったく理不尽なものです。彼は、監禁という状態が不快であるからこれを論じ、これと戦う。不正に対して正義の反抗を試みているわけじゃあない。だから、フーコーを論じる日本人の多くが、彼の社会的な行動に一つの指針を見ているけど、そんな愚かな話はない。彼のコメニイ擁護(ホメイニ擁護:引用者)なんて理不尽そのものでしょう。しかし、あれはまったく政治的なものではなく、快=不快の原理だけの問題なのです。だから、それを全体化するとまったく役に立たない。その意味じゃあ、フーコーは知識人的ではないわけです。

僕が一番好きなフーコーの書物は『知の考古学』だけど、あれは徹底した不快さへの戦いですよね。言説という現実をめぐって世間一般に行きわたっている無感覚に対する不快感の表明以外の何ものでもない。またそうした不快感なしに何ごとかを論じうる人々への不快感の表明でもあるでしょう。フーコーの倫理は、その不快さに対する戦いからくるから、理不尽であり、無責任である。つまり全体化された理論には絶対にならない。そのかわり、柄谷さんのいう「生きながらの積極性」といったものが言葉にみなぎるわけです。フーコーを論じる日本人の言葉に、この不快さに対する戦いが見えますか。感じられないでしょう。それは、不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いているからです。だから、フーコーの倫理を素通りしてしまうのだし、そのことで自分が何を失っているかにも無自覚なのです。不快さに対する戦いの倫理性は理不尽でありながらも自分を実験台にするという積極性を持っている。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』P195-197、1988年)



要するにこうだな、





ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。したがって、個別性ー一般性という対と、単独性ー普遍性という対を区別しなければならない、ドゥルーズは、キルケゴールの「反復」に関してこう述べている。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》On oppose donc la généralitécomme une généralité du particulier, et la répétition comme universalité du singulier.(『差異と反復』)。ドゥルーズは、個別性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は直接(無媒介)的であるといっている。これは別の言い方でいえば、個別性と一般性は、特殊性によって媒介されるが、後者はそうではないということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p156、2001年)



共感の共同体という日本的環境にはまりこんでいたら、そこから逃れるのは困難ではあるにしろ、まず手始めに不正から不快に向けて言説構造を移行させるよう努めてみることだ。例えばガザジェノサイドはキミらにとって不正なの不快なのか、それを問うてみることだ。ーーさあ出発だ!


………………



※附記

なおフロイト・ラカン用語では欲動(享楽)は快原理の彼岸の不快の審級にあり、欲望は快原理–現実原理の審級にある。


不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)


快原理が現実原理に取って代わられるのが実際に意味することは快原理の廃絶ではなく、確保に他ならない。不確かな快は放棄されるものの後に来る確かな快を新しい方法で獲得しようとする為である[In Wirklichkeit bedeutet die Ersetzung des Lustprinzips durch das Realitätsprinzip keine Absetzung des Lustprinzips, sondern nur eine Sicherung desselben. Eine momentane, in ihren Folgen unsichere Lust wird aufgegeben, aber nur darum, um auf dem neuen Wege eine später kommende, gesicherte zu gewinnen.]

(フロイト『心的な出来事の二つの原則の定式』1911年)

ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている》(『フロイトの欲動』E851) と言う。〔・・・〕さらに《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う》(E851)と。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味している。

Lacan peut dire qu'elle (la pulsion) est "suspendue dans la lumière d'une béance".(…) "Cette béance, dit-il, le désir la rencontre aux limites que lui impose le principe du plaisir." C'est déjà inscrire le désir dans les limites du principe du plaisir. (J.-A. Miller, DONC Cours du 18 mai 1994)



この「欲望/欲動」の対比は「自我/エス」の対比でもある。ーー《エスはまったくアモラル(非道徳)であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein]》(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

なお柄谷がよく読み込んだシュミットはこう言っている、《人道を口にする者は詐欺師である[Wer Menschheit sagt will betrügen]》(カール・シュミット『政治的なものの概念』1932)