ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
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この中井久夫はーー穏やかな言い方ながらーー、ラカンを強く馬鹿にしてる。日本ではこの今になってさえ、「無意識は言語のように構造化されている」と思い込んでいる人物が、ラカン研究者にさえいるがね・・・
ここではフロイトの固着概念についてはくどいぐらい繰り返してきたのでそれを外して、無意識について簡単な注釈をしておく。 |
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ラカンの《無意識は言語のように構造化されている》とは象徴界の無意識である。 |
無意識は言語のように構造化されている[L'inconscient est structuré comme un langage ](Lacan, S11, 22 Janvier 1964) |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage] (Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
この象徴界の無意識(言語の無意識)とは実際は前意識である。 ラカンの弟子だったアンドレ・グリーンはいささか強過ぎる口調で次のように言っている。 |
ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とはモノ表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。 Lacan is saying that the unconscious is structured like a language...when you read Freud, it is obvious that this proposition doesn't work for a minute. Freud very clearly opposes the unconscious (which he says is constituted by thing-presentations and nothing else) to the pre-conscious. What is related to language can only belong to the pre-conscious"(André GreenーーQuoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005) |
ある意味で、《無意識は言語のように構造化されている》はラカンの間違いだったのである。もっともフロイトの臨床分析自体、この「言語のように構造化されている前意識」が中心だった。たとえば「自由連想」手法は基本的にこの前意識のみに対応している。 |
ここで確認すれば、フロイトの無意識には前無意識と本来の無意識がある。 |
精神分析は無意識をさらに区別し、前意識と本来の無意識に分離するようになった[ die Psychoanalyse dazu gekommen ist, das von ihr anerkannte Unbewußte noch zu gliedern, es in ein Vorbewußtes und in ein eigentlich Unbewußtes zu zerlegen. ](フロイト『自己を語る』第3章、1925年) |
前無意識も意識されていないという意味では無意識だが、これは自我の無意識であり、本来の無意識はエスの無意識である。 |
私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをエスと名づけるように提案する。 Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, …das Es.(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) |
このエスの無意識としての本来の無意識がラカンの現実界の無意識である。
ラカンは1973年になってようやく現実界の無意識としての身体の無意識を言うようになる。 |
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973) |
この話す身体の無意識を2年後にさらに話す存在[parlêtre]と言うようになる。 |
話す存在という私の表現はフロイトの無意識を代替するものである[D'où mon expression de parlêtre qui se substituera à l'ICS de Freud ](Lacan, Joyce le Symptôme”1975) |
ーー《ラカンは「話す身体」の概念を「話す存在」に結びつけた[D'où le concept de corps parlant que Lacan associe au parlêtre.]》(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault , Le parlêtre et son sinthome , 2016) この話す身体=話す存在のリアルな無意識は「言語のように構造化されていない無意識」であり、ジャック=アラン・ミレールはラカン主流派の2014年の会議で次のように説明している。 |
ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、話す存在[parlêtre]に置き換える。[« Joyce le Symptôme » où il avance le néologisme que je disais, dont il prophétise qu'il remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre. ]〔・・・〕 話す存在[parlêtre] の分析は、言語のように構造化されている無意識とは全く異なる[pour autant qu'analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement …même l'inconscient structuré comme un langage. ](J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014) |
そしてこの話す存在つまり話す身体の無意識こそフロイトの欲動の無意識である。 |
身体なき享楽はない。私は提案するが、話す存在概念は欲動の原無意識と等価の場に置かれる[il n'y a pas de jouissance sans corps. Le concept de parlêtre – c'est ce que je propose – repose sur l'équivalence originaire inconscient – pulsion. ]〔・・・〕 現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016) |
エスの欲動とはフロイトの定義において身体的要求であり、これが現実界の無意識である。 |
エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章1939年) |
このように主流ラカン派(フロイト大義派)においてさえ、明確に指摘されるようになったのは2010年代に入ってからであり、フロイト・ラカンのプロパでない人たちが、今でも《無意識は言語のように構造化されている》がラカンの無意識の定義だと思い込んでいるのはやむ得ない。だがフロイトの思考のもとでは「本来の無意識は言語のように構造化されていない欲動の身体の無意識」なのである。
なお前意識とは失錯行為ーー言い間違いや聞き間違いなどーーに代表される自我の願望の無意識である。 |
神経症患者の夢は、彼の失錯行為やそれに対する彼の自由連想と同様に、彼の症状の意味を発見し、彼のリビドーがどのように配分されているかを明らかにするのに役立つ。夢は願望充足の形で、どのような願望衝動が抑圧にさらされ、自我から引き離されたリビドーがどのような対象に執着するようになったかを教えてくれる。 Die Träume der Neurotiker dienen uns wie ihre Fehlleistungen und ihre freien Einfälle dazu, den Sinn der Symptome zu erraten und die Unterbringung der Libido aufzudecken. Sie zeigen uns in der Form der Wunscherfüllung, welche Wunschregungen der Verdrängung verfallen sind und an welche Objekte sich die dem Ich entzogene Libido gehängt hat. (フロイト『精神分析入門』第28講、1917年) |
フロイトの願望はラカンの欲望であり、無意識の欲望とは前意識である。 |
フロイト用語の願望をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016) |
無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient](Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017) |
さらにもう一つ。ラカンは自我と言語を区別して想像界と象徴界としたが、自我ーーあるいは《自己イマージュ[image de soi]《(Lacan, AE193, 1965)ーーは言語によって構造化されている。あるいは支配されている。 |
想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes… et structuré :… cette fonction symbolique](ラカン, S2, 29 Juin 1955) |
想像界は確かに象徴界の影響の外部に居残ったままだが、他方、ラカンは常に付け加えた、この想像界は同時に象徴界によって常に支配されていると。l'imaginaire est bien ce qui reste en dehors de la prise du symbolique, tandis que, par un autre côté, Lacan ajoute toujours que cet imaginaire est en même temps dominé par le symbolique. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
他方、フロイトは自我と言語を区別していない。この意味で、象徴界の無意識(前意識)と現実界の無意識とする場合、自我は前者に属し、エスは後者に属する。 以上から次の区分がフロイトラカンにはある。 繰り返せば、《言語のように構造化された無意識》とは上段の「自我の前意識」であり「願望の言語」に関わる。他方、下段の「エスの本来の無意識」は「欲動の身体」の無意識であり、身体ゆえに当然、言語のようには「構造化されていない」無意識ということになる。 |
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なお冒頭に示した現実界的シニフィアンとしての固着は、身体的要素と表象的要素を両方を含んだ概念である。 |
固着概念は、身体的要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
ーーここにある「異者としての身体」Fremdkörperに関わるフロイトが使用した用語群は次の通り[参照]。
さらに上図で「1」と示したのが冒頭の、連鎖外[hors chaîne]=S2なきS1 [S1 sans S2]である。他方、象徴界の言語は「S1 - S2」という形でラカン派では示される。
別の言い方をすれば固着とは自我とエスの境界表象 [Grenzvorstellung ]なのである。
抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる[Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung ](Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896) |
抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(「症例シュレーバーl )第3章、1911年) |
フロイトは繰り返しているが、欲動自体、厳密にいえばエスというよりこの境界にあるものなのである。 |
「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、身体的刺激源の心的代理以外のなにものでもない。〔・・・〕したがって欲動は心的なものと身体的なものの境界にある概念である。 Unter einem »Trieb« können wir zunächst nichts anderes verstehen als die psychische Repräsentanz einer kontinuierlich fließenden, innersomatischen Reizquelle, (…) Trieb ist so einer der Begriffe der Abgrenzung des Seelischen vom Körperlichen.(フロイト『性理論三篇』第一篇(5) 、1905年) |
欲動は、心的なものと身体的なものとの境界概念である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年) |
ラカンの享楽も同様である。 |
享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. ](Lacan, S16, 12 Mars 1969) |
ラカンの享楽が固着であるのはこの理由である。 |
享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964) |
固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1, 07 Juillet 1954) |
この言説の法こそシニフィアン連鎖の法、「S1 - S2」という規則の法であり、この外部にあるものが固着のトラウマーー《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》 (フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)ーーにほかならず、これが厳密な意味での欲動つまり享楽である。 |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
※補足➡︎「重要なのは、AでもなくȺでもなくS(Ⱥ)である」