先の投稿で固着はS2なきS1 [S1 sans S2]としたが、基本的には固着はS(Ⱥ)ーー穴のシニフィアン(トラウマの表象)ーーでいいんだよ。ここはちょっと難しいところで簡単には説明し難いが。
まず固着は自我とエスの境界表象だ。
抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる[Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung ](Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896) |
抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(「症例シュレーバーl )第3章、1911年) |
境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997) |
《抑圧は何よりもまず固着である[le refoulement est d'abord une fixation. ]》(Lacan, S1, 07 Avril 1954)ーー厳密には抑圧の第一段階としての原抑圧が固着である、《原抑圧は抑圧というより固着である[primary repression is not so much a repression as a fixation]〔・・・〕原抑圧はS(Ⱥ) に関わる[Primary repression concerns S(Ⱥ)]》(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, CHAPTER 9. 1997).
フロイトの自我エス抑圧図をラカンマテームで置き直したらこうなる。
大他者Aは言語、穴Ⱥはエスの身体、その境界にあるのが穴の表象S(Ⱥ)、つまり固着だ。
これがラカンの現実界の症状サントームS(Ⱥ) にほかならない。
シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001) |
われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である。[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06) |
とはいえラカンはこのS(Ⱥ) を次のようにも言った。
S(Ⱥ)を私は「過剰なる一者」と呼ぶ[S(Ⱥ), …ce que j'ai appelé l'« Un en trop »] (Lacan, S14, 14 Décembre 1966) |
この過剰なる一者 [Un en trop]に相当するものをセミネールⅩⅩで次の形で図示している。 |
右端の「S1→S2」というのが、言説の法であって、つまり象徴界の言語。そうでない諸S1、つまり「過剰なる一者」としてのS(Ⱥ)が固着だ。ーー《固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours]》(Lacan, S1, 07 Juillet 1954)
だから大他者の言語Aと関係がないことを示すときには、このS(Ⱥ)をS2なきS1 [S1 sans S2]と言う。
ラカンがサントームと呼んだもの…この反復的享楽は一者のシニフィアン、S1とのみ関係がある。つまり知を表すS2とは関係がない。この反復的享楽は知の外部にあり、S2なきS1 [S1 sans S2]を通しての身体の自己享楽に他ならない[ce que Lacan appelle le sinthome…, cette jouissance répétitive n'a de rapport qu'avec le signifiant Un, avec le S1. Ça veut dire qu'elle n'a pas de rapport avec le S2, qui représente le savoir. Cette jouissance répétitive est hors-savoir, elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2. (ce que Freud appelait Fixierung) ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011) |
単独的な一者のシニフィアン、二者から独立した一者、S2に付着していないS1 … これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2…précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
ーーミレールが《大他者の根には一者がある[la racine de l'Autre c'est le Un.]》(J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un - 25/05/2011)とするとき、これは言語の底には固着があると言っているのである。
他方、固着はエスの身体Ⱥと関係があるのを示すときにはS(Ⱥ)にて示す。
固着概念は、身体的要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
|
S(Ⱥ) はシニフィアンプラス穴である[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 7/06/2006) |
S(Ⱥ)は穴に敬意を払う。S (Ⱥ)は穴埋めするようにはならない。[« S de A barré » respecte, respecte le A barré. Il ne vient pas le combler]. (J.-A. MILLER, Illuminations profanes - 7/06/2006) |
この穴とはトラウマの穴であり、身体ーーフロイトの「異者としての身体」ーーである。 |
現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976) |
異者としての身体[Fremdkörper]の詳細は➡︎「参照] ここではフロイトの定義における主要表現だけ掲げる。 ま、冒頭図を誤解を怖れず最も簡単に示し直せばこうなるな ーーこの身体はイメージとしての身体、鏡に映る身体ではないことに十全の注意をしなくてはならないがね。 で、境界にあるものは固着だけでなく欲動も厳密には自我とエスの境界にある。 |
欲動は、心的なものと身体的なものとの境界概念である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年) |
享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. ](Lacan, S16, 12 Mars 1969) |
したがって欲動つまり享楽は事実上固着なのである。
幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
この欲動の固着が穴のシニフィアンS(Ⱥ)かつS2なきS1 [S1 sans S2]だ。フロイトにおいての原症状はこの固着である。ーー《症状なき主体はない[Il n’y a pas de sujet sans symptôme ]》(Lacan, S19, 19 Janvier 1972 )ーーこのラカンの症状は現実界の症状サントーム(固着)とそれに対する防衛の症状の二重の意味があるが、いずれにせよ原点には「固着なき主体はない」、これは紛いようがない。
要するに《フロイトは幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]》 (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000) これこそ古井由吉の云う「幼少の砌の髑髏」である。 |
||||||||||
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。 小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。 小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。……(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年) |
||||||||||
あるいは、《固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind.]》(フロイト『精神分析入門」第22講、1917年) ドゥルーズは後年ガタリと組んでいくらか道に迷ったが、1960年代後半の仕事は実に優れている。現代主流ラカン派(フロイト大義派)において2010年前後にようやく鮮明化されたフロイトの核心を40年前に既に指摘しているのである。 ところで、であるーー、
エディプス的父の彼岸には自由があるというドゥルーズ&ガタリの思い込みは、20世紀後半の思想界におけるーーフェミニズムもその影響を多大に受けたーー最悪の錯誤のひとつだった。
これは政治の世界で最も顕著である。学園紛争以前にはエディプス的父の役割を担っていた政治家があまたいた。だがその後の政治的リーダーはどうだろう? そしてこのいま西側諸国は、バイデン、ショルツ、マクロン等の時代であり、《まったき方向感覚喪失》に置かれている。 |