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2025年8月16日土曜日

同調社会はファシズム社会


ちょっとワケアリで、丸山眞男の言葉を拾っているのだが(彼の福沢諭吉への惚れ込みと儒教批判)、今は「そのワケ」から離れて派生的に巡り合った文を掲げる。


 人間というのは何をするかわからないという感覚。少なくとも僕個人にはあります。一つは、軍隊経験ですね。つまり、人間というのはある状況に置かれると、何をするかわからないということ。ナチの領袖ですら、子どもを可愛がり、小鳥が大好きな人が、どうしてアウシュビッツをやるのか。常識では理解できないですよ。しかし、我々はみんな、やりかねないという感覚を持っていないといけない。ところが、けしからんという考え方が支配的になればなるほど、つかまっただけで何かけしからんということになっちゃう。すると制裁、つかまっただけでもう制裁となる。「けしからん主義」です。


 違う例だけれど、宮崎〔勤〕という幼女誘拐犯がいましたね。考えられない事件だけれど、彼の親もみんな村八分になったらしいですね。もちろん親の責任はありますよ。あるけれど、僕なんか、自分の子どもが絶対に宮崎にならないとは言い切れないですね。ビデオばかり観ていて人とあまりつき合わないというのは、今の文明そのものじゃないですか。僕は第二の宮崎はいつでも出ると思いますよ。その根源が今の社会にある。それを何か親がほっとくからいけないという。これはやはり、「けしからん思想」です。


(「今の社会だけじゃなくて、人類永遠にそういうものはある」という発言に対して)同調社会である日本ほどある。つまりノーとなかなか言えない社会。ということは、他者を他者として理解する能力が比較的乏しい社会。自分の価値判断で考えられない。だから新聞が叩くと、よってたかって袋叩きにする。僕がマスコミの嫌いなところは、そこだな。袋叩き、しかも少数意見がほとんどない。これは一億火の玉にいつでもなる社会です。ファッショは国家権力がだんだん肥大していくものだなんていうのは、大間違いです。同調性がある社会は、いつでも一億火の玉になります。

(丸山眞男「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10.)



冒頭の《人間というのは何をするかわからないという感覚》というのもとってもいいが、末尾の《一億火の玉にいつでもなる社会》というのもいい。要するに、同調社会はファシズム社会ということだ。私は、日本のツイッターはファシズム装置ではないか、と言ったことがあるが[参照]、丸山眞男が裏付けてくれた気分だ。空気読みの日本共同体ムラビトはツイッター装置で、それと知らぬまにファッショやってんだよ(ファッショの原義は「束になる」こと)。



労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年


前回掲げた加藤周一曰くの《日本ファッシズムが作りだした歴史的事実の堪え難い惨状》は身近なところにも「この今」露顕している。




※附記


日本が同質的なのは、それだけ安心して住めるので有難いわけです。けれどもまさにその点が思考様式においては盲点を生んでいる。日本だからこそ他者感覚が非常に大事だというのです(後記-これは維新のはじめにすでに福沢が強調している事です。「都(すべ)て人間の交際と名づくるものは、皆大人と大人との仲間なり、他人と他人との附合なり。此仲間附合に実に親子の流儀を用ひんとするも亦難きに非ずや」(学問のすゝめ、第十一篇)。他者感覚がないところには人権の感覚も育ちにくい。だから他者を他者から理解するという事が、実践的にも大切なことです。…意見に反対だけれども、「理解する」-この理解能力が、他者感覚の問題です。これがないと全部自分中心の遠近法的な世界になる。子供の世界像というのはそうです。「お隣のナニちゃん」「お向かいのナニちゃん」です。平たくいえば、科学の約束となっている客観的認識というのは、そういう「お隣のナニちゃん」「お向かいのナニちゃん」を脱して、「地図的認識」になることです。つまり、ここはどこですか、慶應大学です、慶應は三田にあり、三田は東京のなかのここにある、という地図的認識です。慶應のお向いはナントカというのではないのです。自分を中心とした、あるいは自分がアイデンティファイした自分の家とか自分の「くに」とかを中心とした世界像から、こういう意味の「客観的」認識へ歩むのは大変なことなんです。地図的認識は「不自然」で、ほっておけば、自分中心の世界像の方がナチュラルですから、いつまでたっても他者認識にならない。だから日本のような同質的島国では、他者を他者として他者の内側から認識する眼を養うということがとくに大事だと思うんです。(丸山眞男「日本思想史における「古層」の問題」1979.10)



※参考

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それはむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)