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2025年8月29日金曜日

嘘を糧にしてわが身を養っているヒト族

 

◼️アーロン・マテ「ロシアゲートのドキュメンタリーは公開されたか?」2025年4月2日

“Aaron Maté: Russiagate Docs Released?”  on Judging Freedom Podcast April 2, 2025.  

毎日目を覚ますと、画面にパレスチナの子供たちの死体の無数の画像が映し出され、それはまるで天気のような日常茶飯事だ。 It’s become normal to wake up every day and see countless images of dead Palestinian children on your screen as if that’s a routine occurrence, like the weather.




我々はライブストリーミングされたガザジェノサイドを毎日知っている。だが我々にとってそれはもはや天気のような日常茶飯事だ。


『私は知ってしまった。だから私には責任がある。』


これはルワンダでの大量殺戮の目撃者の発言です。アメリカのニュース番組で耳にして以来、私の頭から離れない言葉です。


ボスニアでの民族浄化作戦よりも、カルガモ親子のお堀端の散歩のほうがテレビで大きく報道される日本です。だが、その住民である私たちでも番組をCNNやBBCに切り替えれば、いやでも「知る」ことになります。テレビだけではありません。インターネットはもちろん、新聞雑誌や書籍を通してさえ、私たちは世界で何が起こっているのかをいやおうなしに「知って」しまうのです。


これが冷戦時代であったなら、遠くの紛争について私たちが「責任」を感じる必要などなかったでしょう。冷戦とはすべての紛争を米ソの代理戦争に還元する装置でした。そこではどちらか一方の当事者に加担せずに、紛争の解決のために力を貸すことは不可能でした。それゆえ世界中すべての人間は、世界市民である以前に、親米か親ソかという役割を演じざるを得なかったのです。


冷戦は終わりました。それは「知る」ことがそのまま世界市民としての「責任」を負う時代になったことを意味するのです。(岩井克人「憲法九条および皇室典範改正試案」全文、1996年『二十一世紀の資本主義論』所収)



《世界市民としての「責任」を負う時代》などというのは寝言だというのを如実に知ったこの2年である。


世界市民の道徳的水準の低下にまさるとも劣らず、われわれを驚かせ、狼狽させたことは、彼らがしめしたある別の症状であった。それはつまり、もっとも優秀な頭脳すらもがしめした洞察の欠如であり、頑述さ、徹底的な議論の忌避であり、容易に論駁されうる主張に対する無批判的な追随のことである。実際、これは悲しむべき光景を出現させたのである…

Vielleicht hat uns aber ein anderes Symptom bei unseren Weltmitbürgern nicht weniger überrascht und geschreckt als das so schmerzlich empfundene Herabsinken von ihrer ethischen Höhe. Ich meine die Einsichtslosigkeit, die sich bei den besten Köpfen zeigt, ihre Verstocktheit, Unzugänglichkeit gegen die eindringlichsten Argumente, ihre kritiklose Leichtgläubigkeit für die anfechtbarsten Behauptungen. Dies ergibt freilich ein trauriges Bild…

(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)




我々は日々起こっている大量虐殺などには無関心なエゴイストである。


一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。

Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.

(シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )



人はみな身近な出来事の小さな洞のなかに逗留しているエゴイストなのである。


器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー備給を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと[Der Kranke zieht seine Libidobesetzungen auf sein Ich zurück, um sie nach der Genesung wieder auszusenden.]

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズム[Der bekannte Egoismus der Kranken]はこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


人はみな病人のエゴイズムに引きこもっている。ときには仕事というエゴイズムに。


仕事の価値。ーー仕事はものを考えさせないようにする:そこに仕事の最も大きな恵みがある。というのも仕事は、ごくありふれた疑念や不安に襲われるときに、だれかに咎められることなく引きこもることのできる防護施設だからである。

Wert eines Berufes. - Ein Beruf macht gedankenlos; darin liegt sein grösster Segen. Denn er ist eine Schutzwehr, hinter welche man sich, wenn Bedenken und Sorgen allgemeiner Art Einen anfallen, erlaubtermassen zurückziehen kann.

(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』第9章537節)


これが人間というものであり、我々はそこから出発しなくてはならない。


とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。Enfin, je demanderai pardon pour m'être nourri de mensonge. Et allons.

ーーランボー「別れ Adieu」



しかしどこに向けて出発すべきであろうか?


《うそは人間において本質的なもの[Le mensonge est essentiel à l'humanité.]》 (プルースト「逃げさる女」)であり、自らの嘘に気づかないのが人間だとしたら?


人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからである[ce n'est pas qu'à force de mentir aux autres, mais aussi de se mentir à soi-même, qu'on cesse de s'apercevoir qu'on ment,] (プルースト「ソドムとゴモラ」1922年)

最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である。Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall. (ニーチェ『反キリスト』第55番、1888年)


どうしたらいいんだろ、人間への愛を失った今?

何より、自分自身に嘘をついてはならない。自分に嘘をつき、その嘘に耳を傾ける人間は、自分の内にある真実も、周囲の真実も区別できなくなる地点に到達し、そうして自分自身に対しても他者に対してもすべての敬意を失う。敬意を持たなくなった時、愛することをやめてしまうのだ。(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』1880年)



芥川の声だって聞こえてくる、ーー《そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。》(芥川龍之介『歯車』昭和2年)



シュルレアリストにでもなるべきであろうか?


最も単純なシュルレアリスト的行為は、リボルバー片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ。L'acte surréaliste le plus simple consiste, revolvers aux poings, à descendre dans la rue et à tirer au hasard, tant qu'on peut, dans la foule.(アンドレ・ブルトンAndré Breton, Second manifeste du surréalisme)