質問をもらっているので、今まで何度か記してきたことだが、ここでは一般にもわかりやすいように簡潔に記す。
フロイトのリーベは、(ラカンの)愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない[il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999) |
まずラカンの愛はナルシシズムである。 |
愛することは、本質的に、愛されたいことである[l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. ](Lacan, S11, 17 Juin 1964) |
愛はその本質においてナルシシズム的である[l'amour dans son essence est narcissique] (Lacan, S20, 21 Novembre 1972) |
つまりフロイトの自己愛である。 |
《ナルシシズム》つまり自己愛[ »Narzißmus« oder Selbstliebe ](フロイト『自己を語る』1925年) |
ラカンは次のように言っている。 |
ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである。ナルシシズム的リビドーと対象リビドーの二つは対立する。[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,… l'amour c'est le narcissisme et que les deux s'opposent : la libido narcissique et la libido objectale.. ](Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
これはフロイトに次の文の言い換えである。 |
対象リビドーがナルシシズム的リビドーへ移行することは、明らかに性的目標の放棄をもたらし、非性化、すなわち昇華の一種となる[Die Umsetzung von Objektlibido in narzißtische Libido, die hier vor sich geht, bringt offenbar ein Aufgeben der Sexualziele, eine Desexualisierung mit sich, also eine Art von Sublimierung. ](フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
ここでの対象リビドーは欲望である。それはラカンの次の文が示している。 |
愛は欲望の昇華である[l'amour est la sublimation du désir] (ラカン, S10, 13 Mars 1963) |
さらに欲望とはラカンにおいて幻想である。 |
(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (Lacan, AE207, 1966) |
この幻想はフロイトの次の文に相当する。 |
幻想生活と満たされぬ願望で支えられているイリュージョン[Diese Vorherrschaft des Phantasielebens und der vom unerfüllten Wunsch getragenen Illusion](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年) |
つまりラカンの欲望はフロイトの願望である。 |
フロイト用語の願望[Wunsch]をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.](Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME, 2016) |
以上から「対象リビドー=欲望=願望=幻想」となる。 |
なおリビドーは愛であり、対象リビドーを、フロイトは時に《対象愛[ Objektliebe]》としている。 |
リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギーをリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。 Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
愛着型に則った完全な対象愛[Die volle Objektliebe nach dem Anlehnungstypus](フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年) |
最後に享楽だが、これはフロイトの自体性愛である。 |
享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. …Lacan a étendu ce caractère auto-érotique en tout rigueur à la pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. ](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
自体性愛は実はかなり難解な概念だが[参照]、ここでは当面フロイトの二文を掲げておく。 |
自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年) |
愛は欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的に満足させるという自我の能力に由来している。愛は原ナルシズム的である[Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
つまりフロイトにおいて、自体性愛(自己身体愛)は原ナルシシズム(一次ナルシシズム)と等価であり、他方、自己愛は自我のナルシシズムであり、二次ナルシシズムである。 |
自我のナルシシズムは二次的なものである[Der Narzißmus des Ichs ist so ein sekundärer ](フロイト『自我とエス』第4章、1923年) |
この二次ナルシシズムはときに誇大妄想的になりうる。
われわれの分析的観点からは、誇大妄想狂は、この人物のリビドー的対象備給の撤退による自我の拡大であり、原初の初期幼児期の回帰としての二次ナルシシズムである。 Für unsere analytische Auffassung ist der Größenwahn die unmittelbare Folge der Ichvergrößerung durch die Einziehung der libidinösen Objektbesetzungen, ein sekundärer Narzißmus als Wiederkehr des ursprünglichen frühinfantilen. (フロイト『精神分析入門』第2部第26講、1917年) |
おそらく現在のDSMでの自己愛性パーソナリティ障害( narcissistic personality disorder、NPD)はこの審級ある。 |
以上、フロイト・ラカンにおける愛の三相は次のようになる。
なお先に自体性愛は難解だとしたがーーある時期以降のフロイトにとって母の身体は「去勢された=喪われた自己身体」であるーー、この自体性愛=自己身体愛、それは例えば「自己身体へのトラウマ的固着点への退行としての「自閉症=自体性愛」なども参照されたし。
※附記 先に欲望は幻想だとしたが次の意味合いもあるので注意。 |
幻想は現実界のスクリーン(覆い)だけではない。同時に現実界の窓である。幻想には二つの価値がある。スクリーンと窓である[le fantasme n'est pas seulement écran, écran du réel. Il est en même temps fenêtre sur le réel. Et il y a là deux valeurs du fantasme […] entre l'écran et la fenêtre.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/2/2011) |
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スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽しているが、同時に現実界を暗示してもいる[L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel, il l'est sûrement, mais en même temps il l'indique.](Lacan, S13, 18 Mai 1966 ) |
じつは、この世界は思考を支える幻想でしかない。それもひとつの「現実」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面[grimace du réel]として理解されるべき現実である[alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.](Lacan, Télévision, AE512、Noël 1973) |
幻想とは、象徴化に抵抗する現実界のある部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe, TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998) |
別の言い方をすれば、幻想としての欲望は現実界の享楽の見せかけ(仮象)である。 |
享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン, S18, 13 Janvier 1971) |
幻想としての欲望は基本的には快原理-現実原理の水準にある(他方、自体性愛的欲動つまり享楽は快原理の彼岸)。 |
快原理が現実原理に取って代わられるのが実際に意味することは快原理の廃絶ではなく、確保に他ならない。不確かな快は放棄されるものの後に来る確かな快を新しい方法で獲得しようとする為である[In Wirklichkeit bedeutet die Ersetzung des Lustprinzips durch das Realitätsprinzip keine Absetzung des Lustprinzips, sondern nur eine Sicherung desselben. Eine momentane, in ihren Folgen unsichere Lust wird aufgegeben, aber nur darum, um auf dem neuen Wege eine später kommende, gesicherte zu gewinnen.] (フロイト『心的な出来事の二つの原則の定式』1911年) |
ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている》(『フロイトの欲動』E851) と言う。〔・・・〕さらに《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う》(E851)と。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味している。 Lacan peut dire qu'elle (la pulsion) est "suspendue dans la lumière d'une béance".(…) "Cette béance, dit-il, le désir la rencontre aux limites que lui impose le principe du plaisir." C'est déjà inscrire le désir dans les limites du principe du plaisir. (J.-A. Miller, DONC Cours du 18 mai 1994) |