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2025年9月24日水曜日

最晩年ラカンの告白:「結び目としてのサントーム」の否定

 


ああ、サントームの解説書が出たんだな、


何か書かれているか知らないが、ラカンはサントームセミネールⅩⅩⅢでは、確かに結び目としてのサントームを語った。


私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものだ…サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。

j'ai défini comme le sinthome  [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel,  de continuer de tenir ensemble,…au niveau du sinthome … il y a sinthome…, c'est-à-dire qu'il y a rapport.  

(Lacan, S23, 17 Février 1976)




でも結び目としてのサントームをナイーブに強調するのはまずいよ、最晩年に次のように告白してラカンは死んでいったのだから。


ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はない ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。

La métaphore du nœud borroméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le symbolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'essentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser

Lacan, S26, La topologie et le temps, 9 janvier 1979)



したがって現代仏主流ラカン派(フロイト大義派ーミレール派)では、サントームは母の名であることが強調されている、➤「母の名について」。


ま、いろんな解釈があっていいとはいえ、仮にジョイスにおける結び目の機能が強調され過ぎているのならーーキミの言うようにーー、いくらか問題含みの註解書じゃないかな。原和之、荒谷大輔、福田大輔、今関裕太という4人の共著のようだが、荒谷大輔、今関裕太はまったく知らない名だが、原和之、福田大輔はネット上に落ちている論を垣間見たことがあるが、いくらかナイーブなところのある人物だよ、私の偏った頭では、と言っておくが。


……………


何よりもまず、サントームは現実界であり、トラウマだよ。

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


つまりトラウマの反復だね。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


トラウマの別名は固着ーー《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)であり、《最初に母への固着がある[Zunächst die Mutterfixierung ]》(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)、これがサントームは母の名の意味であり、人はみなこの固着の反復がある。


サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


母への固着の反復とは母なるトラウマの回帰(フロイトにおいて反復と回帰は同義)のこと。

結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


ーー《不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]》(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


母は幼児にとって強いトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


なおフロイトにとってトラウマは強度を持った出来事(身体の出来事)であり、人は初期幼児期に、母による身体の世話によりトラウマ化されている。


出来事がトラウマ的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである[das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt] 〔・・・〕トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚の出来事である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen](フロイト『モーセと一神教』3.1.3 、1939年 )



ラカンが現実界の症状(サントーム)は身体の出来事と言ったのはこの意味である。



症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)


ーー《サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps]》(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)