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2025年11月24日月曜日

みなさんご覚悟をーー「インフレ増税します」

 


➤リンク:「西村康稔「インフレ増税します」」をまとめました。



インフレ税については少し前、「シニカルに」まとめたことがあるがね、タロウは終わってるんだろうか? いや起死回生策がある。


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何年か前にはこういう意見があったな、


ハイパーインフレは、国債という国の株式を無価値にすることで、これまでの財政赤字を一挙に清算する、究極の財政再建策でもある。


予期しないインフレは、実体経済へのマイナスの影響が小さい、効率的資本課税とされる。ハイパーインフレにもそれが当てはまるかどうかはともかく、大した金融資産を持たない大多数の庶民にとっては、大増税を通じた財政再建よりも望ましい可能性がある。(本当に国は「借金」があるのか、福井義高 2019年)


最近でも、一橋大学名誉教授《齊藤誠[2023]は、ハイパーインフレ(激性インフレ)により敗戦国と同じ方法で国債費の重圧を大幅に軽減しようという処方箋を提案している 》[参照]そうだが、こういう話は昔はよくされていた。


例えばアエラの2012年1月16日号には、「金融資産ゼロ若者に広がるデフォルト待望論」とある。




あるいは、小泉進次郎が当時こう言ったそうだよ、《消費税増税法案が閣議決定された330日、国会内で自民党の小泉進次郎代議士はこう述べた。「若い人にもデフォルト待望論がある。財政破綻を迎え、ゼロからはじめたほうが、自分たちの世代にとってはプラスだという議論が出ている」(参照


いまの若い人がこの線で「減税カルト」やってんだったら、その深謀遠慮に絶大な讃嘆を捧げてもいいがね。どうもそうではなく単純な無知のパッションが跳梁跋扈しているようにしか見えないんだ、ーー《無知のパッション、すなわち何も知りたくないパッション[passion de l'ignorance… c'est de cela qu'il ne veut rien savoir] 》(Lacan S20, 15 Mai 1973)   


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岩井克人の『貨幣論』からも「一般論として」インフレからハイパーインフレへのメカニズムを説明した箇所を掲げておこう。


たとえひとびとがインフレ的熱狂に浮かされていたとしても、それが一時的なものでしかないという予想が支配しているならば、その予想によってインフレーションはじっさいに安定化する傾向をもつことになる。なぜならば、そのときひとびとは将来になれば相対的に安くなった価格で望みの商品を手にいれることができることから、いま現在は不要不急の支出を手控えて、資金をなるべく貨幣のかたちでもっているようにするはずだからである。とうぜんのことながら、このような流動性選択の増大は、その裏返しとして商品全体にたいする需要を抑制し、進行中のインフレーションを鎮静化する効果をもつことになるだろう。物価や賃金の上昇率がそれほど高いものでないかぎり、ひとびとはこのようなインフレーションの進行を「好況」としておおいに歓迎するはずである。じっさい、すくなくともしばらくのあいだは、消費も投資も活発になり、生産は増大し、雇用は拡大し、利潤率も上昇する。

しかしながら、ひとびとが逆に、進行中のインフレーションがたんに一時的ではなく、将来ますます加速化していくにちがいないと予想しはじめたとき、ひとつの転機(Krise)がおとずれることになる。


貨幣の購買価値がインフレーションの加速化によって急激に低下していってしまうということは、支出の時期を遅らせれば遅らせるほど商品を手に入れるのが難しくなることを意味し、ひとびとは手元の貨幣をなるべき早く使いきってしまおうと努めることになるはずである。とうぜんのことながら、このような流動性選好の縮小は、その裏返しとして今ここでの商品全体への総需要を刺激し、進行中のインフレーションをさらに加速化してしまうことになる。もはやインフレーションはとまらない。


インフレーションの加速化の予想がひとびとの流動性選好を縮小させ、流動性選好の縮小がじっさいにインフレーションをさらに加速化してしまうという悪循環――「貨幣からの遁走(flight from money)」とでもいうべきこの悪循環こそ、ハイパー・インフレーションとよばれる事態にほかならない。ここに、恐慌(Krise)とインフレ的熱狂(Manie)とのあいだの対称性、いや売ることの困難と買うことの困難とのあいだの表面的な対称性がうち破られることになる。買うことの困難が、売ることの困難のたんなる裏返しにとどまらない困難、恐慌という意味での危機(Krise)以上の「危機(Krise)」へ変貌をとげてしまうのである。

1923年10月30日のニューヨーク・タイムスにAP発の次のような記事がのっていた。


《通貨に書かれたあまりに法外な数字がひとびとのあいだにひきおこした一種の神経症にたいして、当地ドイツの医師たちが考案した名前は「ゼロ発作」あるいは「数字発作」というものであった。何兆という数字を数え上げるために必要な労力にすっかり打ちひしがれ、多数の男女が階級をとわずこの「発作」におそわれたことが報告されている。これらの人々は、ゼロ数字を何行も何行も書き続けていたいという衝動にとらわれているということ以外には、明らかに正常な人間なのである。》(J.K.Galbraith,money 1975から引用)


ハイパー・インフレーションの代表的な事例として数多くの研究の対象となってきたのが、第一次大戦後のドイツの経験である。第一次大戦の開始直後の1914年から持続した上昇をつづけていたドイツの国内物価は、1922年の6月あたりから急速に加速化しはじめ、7月から1923年11月までの16ヶ月間の上昇率は月平均(年平均ではなく!)322パーセントにたっすることになった。とくに9月、10月、11月の最後の3ヶ月間は月平均(年平均ではなく!)1400パーセントもの上昇率を記録することになり、インフレーションが最終的に終息した1923年11月27日の物価の水準は、1913年の水準にくらべて1,382,000,000,000倍にも膨れ上がってしまったのである。まさに「ゼロ発作」をひきおこしかねない数字である。そして、そのあいだにひとびとの流動性選好は急速な収縮をみせ、一単位の貨幣が一定の期間に平均何回取り引きに使われているかをあらわす貨幣の流通速度は1913年にくらべて18倍もの増大をしめすことになった。


このドイツの経験のほかにも、古くは独立戦争直後のアメリカやフランス革命下のフランスにおけるハイパー・インフレーションの事例が有名であり、今世紀にはいってからは、社会主義革命直後のロシア、第一次世界大戦後のオーストリア、ハンガリー、ポーランド、第二次大戦後のギリシャ、ハンガリー、共産党政権化確立前の中国、1980年代の中南米諸国、さらには社会主義体制崩壊後の東ヨーロッパ諸国や旧ソヴィエト連邦諸国などがはげしいハイパー・インフレーションにみまわれている。(岩井克人『貨幣論』1993年)



私はかつて次の箇所に感嘆したことがある。


不況(Depression、depression)、熱狂(Manie、mania)、さらには解体(Spaltung、splitting)ーー貨幣的な交換に固有な困難のあり方を形容するためにわれわれがもちいたこれらの言葉が、それぞれ鬱病(depression)、躁病(mania)、精神分裂病(schizophrenia = splitting of mind)といった精神病理学的な病名を想いおこさせるのはけっして偶然ではない。精神病理学者の木村敏によれば、躁鬱病とは、自己が自己であるということはあくまでも自明なものとされたうえで、その自己の対社会的な役割同一性が疑問に付されているという事態であり、これにたいして分裂病とは、まさに自己が自己であるということの自明性が疑問に付されてしまう事態であり、自己がそのつど自己自身とならなければならないという個別化の営みの失敗として特徴づけられるという。( 『分裂病の現象学』(弘文堂、一九七五)、『自己・あいだ・時間』(弘文堂、一九八一)、 『時間と自己』(中公新書、一九八二)、 『分裂病と他者』(弘文堂、一九九O)等の一連の著作を参照のこと。)じっさい、これからわれわれは、不況やインフレ的熱狂とは、貨幣が貨幣であることは前提とされたうえでの、貨幣とほかの商品全体とのあいだの関係において生じる困難であるのにたいして、ハイパー・インフレーションとは、貨幣が貨幣であることの根拠そのものが疑問に付され、その結果として貨幣の媒介によって維持されている商品世界そのものが解体してしまうという事態にほかならないということを論ずるつもりである。すなわち、人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。(岩井克人『貨幣論』第4章「恐慌論」34節「不均衡累積課程から乗数課程へ」注16、1993年)


自己の個別化の経験はそのつど無から生成する。(木村敏『分裂病の現象学』1975年)

貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)



岩井克人の「不況やインフレ的熱狂/ハイパーインフレ」ーー木村敏の「躁鬱病/分裂病」ーーはラカンの「欠如と穴」(象徴界/現実界)の相違に相当する。

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。c'est le concept de trou en tant que différent de celui de manque.


この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している》場を占めることができる。人は置換することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

Et quelle est la différence? C'est que, quand on parle de manques, restent les places Le manque veut dire une absence qui s'inscrit à une place, c'est-à-dire que les places sont intouchées par le manque Le manque au contraire obéit à l'ordre des places Et c'est bien ce qui fait que d'autres termes peuvent s'inscrire à la place où tel terme « manque », par rapport à quoi, grâce à quoi on obtient une permutation La permutation veut dire que le manque est fonctionnel.


欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないことだから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった審級である。

Le manque, ça peut décevoir parce que ce n'est pas là, mais aussitôt il ne manque pas de termes qui viennent s'y substituer, c'est-à--dire que le manque est une instance parfaitement valable dans la combinatoire.


ちょうど反対のことが穴について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅を意味する。穴は、組合せ規則の場自体の消滅である。

Mais il en va tout à fait autrement du trou, tel que Lacan en élabore le concept. Il en élabore le concept ; il le montre avant tout dans son dernier enseignement C'est que le trou, à la différence du manque, comporte la disparition de l'ordre, de l'ordre des places Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire


この穴が、斜線を引かれた大他者[grand A barré (Ⱥ) ]の最も深い価値である。ここでのȺ は大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴、組合せ規則の消滅を意味する。

Et c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre mais veut dire à la place de l'Autre un trou, la disparition de la combinatoire. 

  (ジャック=アラン・ミレールJ.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


なおラカンは穴を無ともした、《神秘的な無からの創造、穴からの創造[le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou.]》 (Lacan,  S7,  27 Janvier  1960)。つまり《現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]》 (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)というとき、主体は無ということであり、岩井克人=木村敏の無と等価である、《ラカンの定義によれば、すべての主体は無に関わる[tout sujet, tel que le définit Lacan, a une relation avec le rien ]》 (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)




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※附記



財政総論(財務省 2023年4⽉14⽇ PDF )




このPDFには次の資料も添付されている(政府は昔も今もこのように言うものである)。













ちなみに戦後のハイパーインフレは70倍ほどで済んだようだ。



1945 年 8 月の敗戦から、1949 年初めのドッジ・ラインに至るまで、わが国は数年間にわたって激しいインフレーション(インフレ)に直面した。日本の戦後インフレは、第一次大戦後のドイツや同時期のハンガリーほどではなかったが、それでも 1934~36 年卸売物価ベースでみると 1949 年までに約 220倍、1945 年ベースでみても約 70倍というハイパー・インフレとなった。 (伊藤正直「戦後ハイパー・インフレと中央銀行」2012年、PDF