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日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及しているおそれがある。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収ーーより長くは➤参照) |
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大人になった男が、ワイダンをするには、いろいろ理由がある。 その一つは、それが、最も無難な話題であるためだ。男というものは、社会に出て、辛い生活をしながら生計を立てていかねばならない。そして、社会生活で、最も心を悩ますのは対人関係である。うっかりした話題を出すと、さしさわりが起る。ワイダンをやっていれば、無難である。下手なワイダンは困りものだが、巧みなワイダンに顔をしかめるのは、偽善者ということに、大人の世界ではなっている。 それに、ワイダンというものは、じつはけっしてナマナマしいものではなく、これほど観念的なものはないといってもよいくらいのものだ。男と女のちがいの一つは、性について知ることが多くなればなるほど、女は肉体的になってゆくが、男は観念的になってゆくことだ。女は眼をつむってセックスの波間に溺れ込むようになるが、男はますます眼を見開いて観察し、そのことから刺激を得て、かろうじて性感を維持してゆく。(吉行淳之介『不作法紳士―男と女のおもてうら―」1962年) |
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ただ罌粟の家の人々と 形而上学的神話をやっている人々と ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ アンドロメダのことを私はひそかに思う 向うの家ではたおやめが横になり 女同士で碁をうっている ふところから手を出して考えている われわれ哲学者はこわれた水車の前で ツツジとアヤメをもって記念の 写真をうつして又お湯にはいり それから河骨のような酒をついで 夜中幾何学的な思考にひたったのだ ーー西脇順三郎「近代の寓話」より |
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「近代の寓話」に「形而上学的神話をやつている人々と/ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」とあるのを、西脇順三郎自身から、《これは実は「猥談」をしている同僚のことだという説明をうかがって》、驚いた…(新倉俊一「記憶の塔」) |


