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2025年12月13日土曜日

国家の原型は収奪機関

 

何度か掲げているが、当時の反リフレ派の代表格だった池尾和人氏の2011年時点での指摘は実に優れており、この今、熟読玩味する内容である(池尾氏は2021年に癌により68歳で早死にしてしまったが)。


◼️経済再生の鍵は不確実性の解消 (池尾和人&大崎貞和) 

ーーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部 2011, 11

大崎:今のお話を伺っていて思ったのは、政策当事者が事態を直視するのを怖がっているのではないか、ということです。例えば、二大政党制といっても、イギリスやアメリカでは、高福祉だけれども高負担の国をつくるという意見と、福祉の範囲を限定するけれどもできるだけ低負担でやるというパッケージの選択肢を示し合っているように思います。


日本ではどの政党も基本的に、高福祉でできるだけ増税はしない、どちらかというと減税する、という話ばかりです。実現可能性のあるパッケージを示すことから、政策当事者が逃げている気がします。


池尾:細川政権が誕生したのが今から18年前です。それ以後の日本の政治は、非常に不幸なプロセスをたどってきたと感じています。


それ以前は、経済成長の時期でしたので、政治の役割は余剰を配分することでした。ところが、90年代に入って、日本経済が成熟の度合いを強めて、人口動態的にも老いてきた中で、政治の仕事は、むしろ負担を配分することに変わってきているはずなんです。余剰を配分する仕事でも、いろいろ利害が対立して大変なんですが、それ以上に負担を配分する仕事は大変です。


大崎:大変つらい仕事ですね。

池尾:そういうつらい仕事に立ち向かおうとした人もいたかもしれませんし、そういう人たちを積極的にもり立ててこなかった選挙民であるわれわれ国民の責任も、もちろんあると思います。少なくとも議会制民主主義で政治家を選ぶ権利を与えられている国においては、簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。


しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、いろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。〔・・・〕

デフレから脱却しなければいけないのだけれども、そのプロセスについてはかなり慎重に考えなければいけません。 


インフレになれば債務者が得をして債権者が損をするという感覚があります。しかしそれは、例えば年収と住宅ローンのように、所得1に対して抱えている負債がせいぜい2、3ぐらいのときの話です。 


日本の置かれている状況は、一般会計の税収40兆円ぐらいに対し、グロスで1,000兆円ぐらいの政府債務があるわけです。そうすると、1対25です。景気がよくなって税収が増えたとしても、利払いの増加のほうがその上をいく構造になっています。ですから、景気が好転するときが一番用心すべきときになります。



要するに、政治が負担を配分する役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっている、これが2025年のこの今も続いている。あるいは《景気がよくなって税収が増えたとしても、利払いの増加のほうがその上をいく構造になっています》ともあるが、これがインフレ増税しかもはや手がない理由だ。


増税が難しければ、インフレ(による実質的な増税)しか途が残されていない恐れがあります。(池尾和人「このままでは将来、日本は深刻なインフレに直面する」2015年)

「妙案みたいなものは、もう簡単には見つかりません。『シートベルトを強く締めてください』と呼びかけたほうがいいかもしれませんね」 (池尾和人発言ーー「日銀バブルが日本を蝕む」」藤田知也, 2018年)



国家というのはもともと徴税装置なんだよ、その仕事から逃げてきたのが日本の政治家だ。なぜ逃げてきたのか。端的に言えば、増税したら選挙で票を獲得できないからだ。


柄谷行人の一般の人にとってはいささか過激に見えるだろう言い方なら、「国家の原型は収奪機関」だ。



マルクスは、「価値形態」を考察した後で、「交換過程」という節で、商品交換の発生を歴史的に考察しているように見える。そこで彼がいうのは、それが共同体と共同体の間で始まるということである。《商品交換は、共同体の終わるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まるのだ。しかし物は、ひとたび共同体の対外生活において商品となれば、たちまち反作用的に共同体の対内生活でも商品となる》(『資本論』第一巻第一篇第二章)。しかし、これは歴史的な遡行によってではなく、貨幣経済に固有の性格を超越論的に明らかにすることから見いだされる「起源」である。マルクスは、右のようにいうとき、別の交換形態が存在することを前提としている。商品経済としての交換は「交換」一般のなかで、むしろ特殊な形態なのである。


第一に、共同体の中にも「交換」がある。それは贈与―お返しという互酬制である。これは相互扶助的だが、お返しに応じなければ村八分にあるというふうに、共同体の拘束が強くあり、また、排他的なものである。


第二に、共同体と共同体の間には強奪がある。むしろ、それが基本的であって、商品交換は、互いに強奪することを断念するところにしか始まらない。にもかかわらず、強奪も交換の一種と見なしてよい。というのは、持続的に強奪するためには、被強奪者を別の強奪者から保護したり、産業を育成したりする必要があるからだ。それが国家の原型である。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、むしろ、農民は領主の保護に対するお返し(義務)として年貢を払うかのように考え、商人も交換の保護のお返しとして税を払う。そのために、国家は超階級的で、「理性的」であるかのように表象される。したがって、収奪と再分配も「交換」の一種だということができる。人間の社会的関係に暴力の可能性があるかぎり、このような形態は不可避的である。


さらに、第三のタイプが、マルクスのいう、共同体と共同体の間での商品交換である。この交易は相互の合意によるものであるが、すでに述べたように、この交換から剰余価値、すなわち資本が発生する。とはいえ、それは強奪―再分配という交換関係とは決定的に違っている。


ここで、つけ加えておきたいのは、第四の交換のタイプ、アソシエーションである。それは相互扶助的だが、共同体のような拘束はなく排他的でもない。アソシエーションは、資本主義的市場経済を一度通過した後にのみあらわれる、倫理的―経済的な交換関係の形態である。アソシエーションの原理を理論化したのはプルードンであるが、すでにカントの倫理学にそれがふくまれている。


ベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートが、本来異質であるネーションとステートの「結婚」であったといっている。これは大事な指摘であるが、その前に、やはり根本的に異質な二つのものの「結婚」があったことを忘れてはならない。国家と資本の「結婚」、である。


国家、資本、ネーションは、封建時代においては、明瞭に区別されていた。すなわち、封建領主(領主、王、皇帝)、都市、そして、農業共同体である。それらは、異なった「交換」の原理にもとづいている。


すでに述べたように、国家は、収奪と再分配の原理にもとづく。第二に、そのような国家機構によって支配され、相互に孤立した農業共同体は、その内部においては自律的であり、相互扶助的、互酬的交換を原理にしている。第三に、そうした共同体と共同体の「間」に、市場、すなわち都市が成立する。それは相互的合意による貨幣的交換である。


封建的体制を崩壊させたのは、この資本主義的市場経済の全般的浸透である。だが、この経済過程は政治的に、絶対主義的王権国家という形態をとることによってのみ実現される。絶対主義的王権は、商人階級と結託し、多数の封建国家(貴族)を倒すことによって暴力を独占し、封建的支配(経済外的支配)を廃棄する。それこそ、国家と資本の「結婚」にほかならない。商人資本(ブルジョアジー)は、この絶対主義的王権国家のなかで成長し、また、統一的な市場形成のために国民の同一性を形成した、ということができる。しかし、それだけでは、ネーションは成立しない。ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに解体されていった農業共同体がある。それまで、自律的で自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬制)を、ネーション(民族)の中に想像的に回復したのである。ネーションは、悟性的な(ホップス的)国家と違って、農業共同体に根ざす相互扶助的「感情」に基盤をおいている。そして、この感情は、贈与に対してもつ負い目のようなものであって、根本的な交換関係をはらんでいる。


しかし、それらが本当に「結婚」するのは、ブルジョア革命においてである。フランス革命で、自由、平等、友愛というトリニティ(三位一体)が唱えられたように、資本、国家、ネーションは切り離せないものとして統合される。だから、近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。


たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。


この三つの「交換」原理の中で、近代において商品交換が広がり、他を圧倒したということができる。しかし、それが全面化することはない。資本は、人間と自然の生産に関しては、家族や農業共同体に依拠するほかないし、根本的に非資本制生産を前提としている。ネーションの基盤はそこにある。一方、絶対主義的な王(主権者)はブルジョア革命によって消えても、国家そのものは残る。それは、国民主権による代表者=政府に解消されてしまうものではない。国家はつねに他の国家に対して主権国家として存在するのであって、したがって、その危機(戦争)においては、強力な指導者(決断する主体)が要請される。ポナパルティズムやファシズムにおいて見られるように。現在、資本主義のグローバリゼーションによって、国民国家が解体されるだろうという見通しが語られることがある。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。たとえば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。

(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)



この『トランスクリティーク』の記述は21世紀以降の柄谷の思考の原点であって、最近になっても変わっていない。



◼️トランスクリティーク 移動しながらの批評の先に見いだしたもの:私の謎 柄谷行人回想録㉔ 2025.03.12

――カント的に言い換えれば、マルクスが相手にしたのは、物自体としての商品ではなく、現象界の商品同士の関係性だった、と書かれています。一方で、資本主義的な商品交換とは異なる交換の原理がある。例えば、共同体の中では、贈りものとお返しという交換があると。


柄谷 交換様式Aですね。これは互酬交換なので、相互扶助的ですが、お返しをしなければ村八分にされるかもしれないので、ここには強制力と排他性があります。原始社会や農村共同体では、これが主要な交換の形態でした。


交換様式Bは、国家に代表される交換の形態です。
国家は、国民から収奪してそれを再分配するという交換原理に基づいている。より多くを効率的に安定的に収奪するために、国民を保護し、公共事業をやる。専制国家、封建的国家の頃には、これが主要な交換の形態でした。


近代以降は、商品交換C―お金と商品の交換-が高度に発達した資本主義社会になりましたが、交換様式AとBも依然として健在です。交換様式Aは贈与と返礼に基づくナショナリズム(ネーション)、交換様式Bは収奪と再分配に基づく国家として、極めて大きな力を持ち続けている。近代社会は、ABCが、相互的に補完し合い、補強し合うような体制によって成り立っています。僕はそれを、資本=ネーション=国家と呼んできました。

――『トランスクリティーク』の時点では、異なる交換形態を、まだA、B、Cと名付けていませんよね。


柄谷 そうですね。でも、名前がなかっただけで、アイディアは同じですよね。


柄谷 少し具体的に説明すると、資本主義的な自由経済は、格差を生みますよね。そうすると、国民同士お互いに助け合うべきだという発想(A)から、国家機構(B)によって富の再分配が行われます。経済(C)の問題を、ナショナリズム(A)と国家(B)が補い合っている、これが現代社会を支配する体制です。

――それだけ聞くと、悪いことでもなさそうですけども。


柄谷 しかし、資本主義(C)は必然的に恐慌を引き起こします。国家(B)も、常に他の国家との潜在的争いの中に置かれている。ナショナリズム(A)も、ファシズムに向かう危険を孕んでいる。どう転んでも、行き着くところは戦争です。戦争までをも調整の機能として生き残ってきたのが、資本=ネーション=国家なのです。こんなものは終わりにしないといけない。


では、どうすればいいか。『トランスクリティーク』で、僕は、アソシエーションに活路を見出しました。社会主義とか共産主義という言葉には手垢がついていて、偏見をもたれているでしょう。そういう言葉を使うと誤解を呼んで面倒だから、アソシエーションという言葉を採用しました。アソシエーションは、ABCを超える交換です。僕はそれをXと名付けました。Xは、一種のAなんですが、ナショナリズムとは違います。ナショナリズムはBCと親和的ですが、アソシエーションはBCを斥ける。そういうタイプのAですね。僕は、
高次元のAと呼んでいます。相互扶助的だけれど、Aにあるような拘束性や排他性がないような交換関係だから。これは、いまだ存在したことがない形態です。Xについては、あとから交換様式Dと呼ぶようになったけれど、どちらも同じです。



このところ主に災害対策に関わってなのだろうが「自助・共助・公助」という三幅対語がツイッター社交界で賑わっているようだが、自助・共助とはAのネーションの互酬の領域にある、ーー《誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。》(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


他方、「公助」というのは原理的には誤解であって、収奪あっての公助だよ。だが国民の強い反対により収奪ができなかったのが、日本の政治だ。繰り返せば、これが冒頭に掲げた池尾和人曰くの、「政治が負担を配分する役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっている」である。





……………

高齢者1人当たり生産年齢人口は、1990年からならこの今、次のように変わっている。



75歳以上に年金支給年齢を変えても追っつかない(1990年レベルにはならない)、だから本来的には増税よりほかないんだ。


◼️大和総研理事長武藤敏郎「財政と社会保障 ~私たちはどのような国家像を目指すのか~」2017年1月18日

日本の場合、低福祉・低負担や高福祉・高負担という選択肢はなく、中福祉・高負担しかありえないことです。それに異論があるなら、 公的保険を小さくして自己負担を増やしていくか、産業化するといった全く違う発想が必要になるでしょう。


ここで武藤敏郎ーー10年に1度の財務次官と言われ日銀総裁の最有力候補だったが、小沢一郎などの強い反対に遭遇し2度も総裁になり損なったーーが言っている《公的保険を小さくして自己負担を増やしていくか、産業化するといった全く違う発想》とはG7の中で国民皆保険制度がない唯一の国アメリカ(自助努力と市場原理の国)を念頭にしている[参照]。


低福祉高負担という話もでていたがね、《将来を見据えると、このまま社会保障制度の改革を行わない場合、給付と負担のアンバランスは、更に拡大すると見込まれる。これを放置すれば、現在の日本が「中福祉、低負担」を享受する見返りに、将来世代がツケを払う形で「中福祉、高負担」、更には「低福祉、高負担」への転換を余儀なくされることとなりかねない。》(令和2年度予算の編成等に関する建議 令和元年 11 月 25 日  財政制度等審議会 PDF



だが、国民の大半はこの現象をわかろうとしない。こういうことを記すと「ザイム真理教」なる嘲罵語で済ましておくのが一般大衆というものようだがね、そういえばザイム真理教教祖森永卓郎サマはスバラシイ予言をしたようだがなーー、





なにはともあれ、もう大半の経済学者は諦めてるから、最近は先の「常識」をあまり言わないだけなんだがな、ーー《社会保障は原因が非常に簡単で、人口減少で働く人が減って、高齢者が増えていく中で、今の賦課方式では行き詰まります。そうすると給付を削るか、負担を増やすかしかないのですが、そのどちらも難しいというのが社会保障問題の根本にあります。》(小峰隆夫「いま一度、社会保障の未来を問う」2017年)


で、諦めたらどうなるか知ってるかい、例えば、一橋大学名誉教授《齊藤誠[2023]は、ハイパーインフレ(激性インフレ)により敗戦国と同じ方法で国債費の重圧を大幅に軽減しようという処方箋を提案している 》[参照]。「心ある」経済学者たちはこの見解に傾きつつあるんだよ。


……………


※附記

森永卓郎サマのスバラシイ予言を貼り付けたので、「ザイム真理教」と罵倒された矢野康治さんの予言も貼り付けておくよ、きっとほとんどの方々はオワスレになっていることだろうから。


◼️「このままでは国家財政は破綻する」

矢野康治財務事務次官がバラマキ政策を徹底批判, 文藝春秋 2021年11月号

「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。


 数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」


 そう語るのは財務省事務方トップの矢野康治事務次官(58)。10月末の総選挙に向けて与野党ともにバラマキ合戦のような経済政策をアピールするなか、財源も不確かな財政楽観論を諫めようと、「文藝春秋」11月号に論文を寄稿した。財務事務次官と言えば、霞が関の最高ポストのひとつ。在任中に寄稿するのは異例のことだ。

「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」


 10月末には総選挙も予定されており、各政党は、まるで古代ローマ時代の「パンとサーカス」かのように大盤振る舞いを競う。だが、日本の財政赤字はバブル崩壊後、悪化の一途をたどり、「一般政府債務残高/GDP」は256.2%と、第二次大戦直後の状態を超えて過去最悪。他のどの先進国よりも劣悪な状態にある(ちなみにドイツは68.9%、英国は103.7%、米国は127.1%)。

「心あるモノ言う犬」としてお話したい


「私は、国家公務員は『心あるモノ言う犬』であらねばと思っています。昨年、脱炭素技術の研究・開発基金を1兆円から2兆円にせよという菅前首相に対して、私が『2兆円にするにしても、赤字国債によってではなく、地球温暖化対策税を充てるべき』と食い下がろうとしたところ、厳しくお叱りを受け一蹴されたと新聞に書かれたことがありました。あれは実際に起きた事実ですが、どんなに小さなことでも、違うとか、よりよい方途があると思う話は相手が政治家の先生でも、役所の上司であっても、はっきり言うようにしてきました。


『不偏不党』――これは、全ての国家公務員が就職する際に、宣誓書に書かせられる言葉です。財務省も霞が関全体も、そうした有意な忠犬の集まりでなければなりません」


 矢野氏の告発の背景には、これまで財務省が政治家との関係を重視するあまり、言うべきことを言って来なかったという反省もある。

「もちろん、財務省が常に果敢にモノを言ってきたかというと反省すべき点もあります。やはり政治家の前では嫌われたくない、嫌われる訳にはいかないという気持ちがあったのは事実です。政権とは関係を壊せないために言うべきことを言わず、苦杯をなめることがままあったのも事実だと思います。


 財務省は、公文書改ざん問題を起こした役所でもあります。世にも恥ずべき不祥事まで巻き起こして、『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。私自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱を忘れたことはありません。猛省の上にも猛省を重ね、常に謙虚に、自己検証しつつ、その上で『勇気をもって意見具申』せねばならない。それを怠り、ためらうのは保身であり、己が傷つくのが嫌だからであり、私心が公を思う心に優ってしまっているからだと思います。私たち公僕は一切の偏りを排して、日本のために真にどうあるべきかを考えて任に当たらねばなりません」

破滅的な衝突を避けるためには……


「昨今のバラマキ的な政策論議は、実現可能性、有効性、弊害といった観点から、かなり深刻な問題をはらんだものが多くなっています。それでも財務省はこれまで声を張り上げて理解を得る努力を十分にして来たとは言えません。そのことが一連のバラマキ合戦を助長している面もあるのではないかと思います。



 先ほどのタイタニック号の喩えでいえば、衝突するまでの距離はわからないけれど、日本が氷山に向かって突進していることだけは確かなのです。この破滅的な衝突を避けるには、『不都合な真実』もきちんと直視し、先送りすることなく、最も賢明なやり方で対処していかねばなりません。そうしなければ、将来必ず、財政が破綻するか、大きな負担が国民にのしかかってきます」



ところで少し前からこんなオトコマエたちの集合写真がでまわっているな、