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2026年1月25日日曜日

人は自分の専門領域が諸学問の女王だと考えるもの


人はおおむね自分の専門領域が一番だと考えるものなんだろうよ。

丸山眞男や柄谷行人はこう言ってるがね。

政治的なるものの位置づけ。  政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(丸山真男「対話」1961 年)


『資本論』は経済学の書である。したがって、多くのマルクス主義者は実は、『資本論』に対してさほど関心を払わないで、マルクスの哲学や政治学を別の所に求めてきた。 あるいは、『資本論』をそのような哲学で解釈しようとしてきた。むろん、私は『資本論』以外の著作を無視するものではない。しかし、マルクスの哲学や革命論は、むしろ『資本論』にこそ見出すべきだと考えている。一般的にいって、経済学とは、人間と人間の交換行為に「謎」を認めない学問のことである。 その他の領域には複雑怪奇なものがあるだろうが、経済的行為はザッハリッヒで明快である、それをベースにして、複雑怪奇なものを明らかにできる、と経済学者は考える。だが、広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。そして、それらの中で、いわゆる経済学が効象とする領域が特別に単純で実際的なわけではない。 貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚安であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章、2001年)



優れた人ほどそうかもしれないよ。真の哲学者、文学者、芸術家もそう思っている筈だ。


ボクはどっちかというとニーチェ系だがね。



これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学と力への意志Willens zur Macht]の展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕

心理学者は少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。

Die gesammte Psychologie ist bisher an moralischen Vorurtheilen und Befuerchtungen haengen geblieben: sie hat sich nicht in die Tiefe gewagt. Dieselbe als Morphologie und Entwicklungslehre des Willens zur Macht zufassen, wie ich sie fasse - daran hat noch Niemand in seinen Gedanken selbst gestreift: sofern es naemlich erlaubt ist, in dem, was bisher geschrieben wurde,(…) wird zum Mindesten dafuer verlangen duerfen, dass die Psychologie wieder als Herrin der Wissenschaften anerkannt werde, zu deren Dienste und Vorbereitung die uebrigen Wissenschaften da sind. Denn Psychologie ist nunmehr wieder der Weg zu den Grundproblemen.

(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)


ニーチェの力への意志は欲動だがね、


すべての欲動の力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。

In den Griechen…IIch sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.

(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888



で、フロイトはこの力への意志をリビドー=エロス=性欲動としたがね。

性欲動が心的生に表象される力を我々はリビドー、つまり性的要求と呼んでおり、それを飢えや力への意志等と類似したものと見なしている。

die Kraft, mit welcher der Sexualtrieb im Seelenleben auftritt, Libido – sexuelles Verlangen – als etwas dem Hunger, dem Machtwillen u. dgl.(フロイト『精神分析のある難しさ』Eine Schwierigkeit der Psychoanalys1917年)

哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の駆り立てる力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕

この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。

Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse(…) 

Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen.

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


つまり哲学は性欲動の昇華に過ぎない、というここでもニーチェ=プラトンに結びつく。

プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882




というわけだが、より一般論として言えば、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている[Human being cannot endure very much reality]》 (エリオット「四つの四重奏」ーー中井久夫訳「統合失調症の精神療法」より)だろうよ。


クンデラの言い方でもいいさ。



自分自身のイメージにたいする気づかい、こいつはどうも、人間の矯正しようのない未熟さなんですねえ。自分のイメージに無関心でいるのはなんとも難しい! そういう無関心は人間の力を超えている。(クンデラ『不滅』第4部「ホモ・センチメンタリス」1990年)

人間とはイメージ以外の何ものでもないよ。哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ」〔・・・〕


「ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本体が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。徹底的な臆面のなさで、イマゴローグたちは、その逆こそ本当だと証明しているんだね。 つまり、ぼくたちの自我というのは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、これにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。 そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。 まず最初はきみ自身でそのイメージを描きだそうとやってみるし、つぎには、せめてそのイメージにたいして影響をもちつづけ、それを制御しようとやってみるんだけれど、でも無駄なんだね。なにか悪意のある言いかたひとつあれば十分、それだけでもうきみは永遠に嘆かわしい劇画へと変わってしまうのさ」(クンデラ『不滅』第3部「闘い」1990年)



・・・と引用しているのは、実は「ほどよく聡明な=凡庸な」哲学研究者が「哲学が一番」と言ってるのを見て、《悪意のある言い方》をしたくなる誘惑に駆られ、なんとか抑えようとしてるのさ。



そうそう、ドゥルーズはプルースト論でこう言ってるがね、

(プルーストの)『見出された時』の大きなテーマは、真理の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、思考を強制させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも詩人が重要である。

Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci: la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser» ; plus important que le philosophe, le poète.

〔・・・〕

恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。

Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. La philosophie, avec toute sa méthode et sa bonne volonté, n'est rien face aux pressions secrètes de l'œuvre d'art.

(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)



ボクは基本的には哲学はチョロいと思ってる人間だからな、エラそうなこと言ってる哲学研究者を見るとどうも嘲弄したくてたまらなくなるんだ。


ニーチェやウィトゲンシュタインを哲学者というならまた別だがね、

隠遁者[Einsiedler]は、かつて哲学者ーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーが自己の本来の究極の見解を著書のうちに表現した、とは信じない。書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]。実に彼は次のように疑うであろう。およそ哲学者は究極的かつ本来的な[letzte und eigentliche見解をもちうるのか、哲学者にとってあらゆる洞窟の背後に[hinter jeder Hoehle ]、なお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、表層の彼岸に[ueber einer Oberflaeche]、より広況な、より未知の、より豊かな世界があり、あらゆる根拠[Grund]の背後に、あらゆる根拠づけ[Begrúndungの背後に一つの深淵[ein Abgrund ]があるのではないか、と。〔・・・〕かつまた次のことは疑うべき何ものかである。すなわち「哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.]」(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)


「哲学を勉強したことがないので、あれやこれやの判断を下すことができません」という人が、ときどきいる。こういうナンセンスをきかされると、いらいらする。

「哲学がある種の学問である」などと申し立てられているからだ。おまけに哲学が、医学かなんかのように思われているのである。――だが、次のようなことは言える。哲学的な研究をしたことのない人には、その種の研究や調査のための、適切な視覚器官が備わっていないのである。

それは、森で、花やイチゴや薬草を探しなれていない人が、何一つとして発見できないのにかなり似ている。かれの目は、そういうものに対して敏感ではないし、また、とくにどのあたりで大きな注意を払わなければならないか、といったこともわからないからである。

同じような具合に、哲学の訓練を受けたことのない人は、草むらの下に難問が隠されているのに、その場をどんどん通り過ぎてしまう。

一方、哲学の訓練を受けた人なら、まだ姿は発見していないのだけれども、その場に立ちどまって、「ここには難問があるぞ」と感じ取る。

――だが、そのようによく気がつく熟達者ですら、じっさいに発見するまでには、ずいぶん長時間、探しまわらなければならない。

とはいえ、それは驚くにはあたらない。何かがうまく隠されている場合、それを発見するのは難しいものなのである。

Leute sagen gelegentlich, sie könnten das und das nicht beurteilen, sie hätten nicht Philosophie gelernt. Das ist ein irritierender Unsinn; denn es wird vorgegeben, die Philosophie sei irgendeine Wissenschaft. Und man redet von ihr etwa wie von der Medizin. – Das aber kann man sagen, daß Leute, die nie eine Untersuchung philosophischer Art angestellt haben, wie die meisten Mathematiker z. B., nicht mit den richtigen Sehwerkzeugen für derlei Untersuchungen oder Prüfungen ausgerüstet sind. Beinahe, wie Einer, der nicht gewohnt ist, im Wald nach Blumen, Kräutern oder Beeren zu suchen, keine findet, weil sein Auge für sie nicht geschärft ist, und er nicht weiß, wo insbesondere man nach ihnen ausschauen muß. So geht der in der Philosophie Ungeübte an allen Stellen vorbei, wo Schwierigkeiten unter dem Gras verborgen liegen, während der Geübte dort stehenbleibt und fühlt, hier sei eine Schwierigkeit, obgleich er sie noch nicht sieht. – Und kein Wunder, wenn man weiß, wie lange auch der Geübte, der wohl merkt, hier liege eine Schwierigkeit, suchen muß, um sie zu finden. Wenn etwas gut versteckt ist, ist es schwer zu finden. (ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』Wittgenstein, Vermischte Bemerkungen, S. 61


《草むらの下に難問が隠されているのに、その場をどんどん通り過ぎてしまう》とあるが、やっぱり究極の隠されてるものはキノコじゃないかね。





おっと、デリダの言葉が向こうからやって来たな。


デリダ・インタビュー(1)LAWEEKLY, 2002118/14

【問】映画の中で、あなたにある問いが尋ねられました--「尊敬する哲学者になにでも尋ねることができるとしたら、なにを質問しますか」と。すると「性生活についてですね。決して話そうとしないことですから」と答えておられました。ところがインタビュアーがあなたの性生活について質問すると、答えられませんでした。どこに境界があるのでしょうか。


【答】わたしが答えるのを拒んだのは、それが隠さなければならないことだからではなく、カメラの前で外国語で即興に話しながら、自分の生活のもっとも個人的な側面を明らかにしたくはなかったからです。こうした事柄について話すのなら、文章という自分の道具を研ぎ澄ますでしょう。わたしの書いたものを読んでいただければ、こうした事柄について、わたしなりのやりかたで検討しているのご理解いただけるでしょう。『郵便葉書』や『割礼告白』は自伝的な作品ですし、わたしの生活と欲望は、わたしのすべての文章に刻印されています。