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2026年1月24日土曜日

いまだふつふつと生き残っている礼儀作法の法の日本社会

 


▶︎動画


確かに外国人が見たら驚くんだろうな、いまだふつふつと生き残っているこの礼儀作法の法の日本社会を。


主体がおのれの根源的同一化として、 唯一の徴にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ 」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係[relations de politesse]によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支えられるということである。日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法[lois de la politesseのもとに置かれていることから、強化している。

…le statut du sujet. Qu'il s'appuie sur un ciel constellé, et non seulement sur le trait unaire, pour son identification fondamentale, explique qu'il ne puisse prendre appui que sur le Tu, c'est-à-dire sous toutes les formes grammaticales dont le moindre énoncé se varie des relations de politesse qu'il implique dans son signifié. La vérité y renforce la structure de fiction que j'y dénote, de ce que cette fiction soit soumise aux lois de la politesse.

Lacan,  Lituraterre, Autres Écrits19, 1971年)



ここででラカンが「唯一の徴」と言っているのは、フロイトの自我理想の機能である。ーー《唯一の徴は、自我理想を形成する同一化のなかに主体を疎外する[le trait unaire qui,… aliène ce sujet dans l'identification première qui forme l'idéal du moi]》 (ラカン, E808, 1960


原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である[Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)





そして先のラカンの言っていることは、日本ではこの自我理想の代わりに礼儀作法の法が国民集団の結合機能の役割を果たしているのではないか、ということである。これは事実上、次の森有正・柄谷行人・中井久夫・加藤周一のいう二人称関係の法である。



実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕

何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年)

日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)


つまり日本文化は汝文化、二人称文化である。

「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)

いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)

日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



なおフロイトはこうも言っている。

言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)


つまり二人称的言語が日本の場合、集団の同一化の機能を果たしていると捉えうる。この二項関係文化は実は悪い面もあるのだが[参照]、とはいえ、この礼儀作法の法の良い面も見逃せない。たとえばプーチンが柔道に象徴される礼儀作法の文化に大いに感嘆しているのはその一例である。



なお森有正の次の文は、二人称文化の起源の重要なひとつは天皇制だと示唆している、ーー少なくとも私にはそう読める。

25年前の第二次世界大戦が終るまで、日本の思想や道徳は、君臣、父子、兄弟、主従の関係を軸としていた。ことに全体の中心をなしていた天皇中心的国家観は、国家と国民の生活の全体を陰に陽に組織する原理のようなものとなっていた。人はそれを天皇制と呼び、戦前の諸悪の根源のように言うけれども、実際は、それはむしろ古来の日本人の「経験」の構造に由来するものではないであろうか。むしろそれがおもてにあらわれ、制度や道徳の形に結晶した結果として考えることの出来るものではないであろうか。


天皇のために死するということが〔・・・〕自己の自己に対する責任と倫理を包含することなく、君臣の関係がすでに自己の意志を越えて存在しており、その関係の責任の「根拠」が自己になくて、関係そのものに在る時、そしてそれが自発的に当然うけとられるべきものとして要求される時、そういう関係の歴史的、社会学的因果づけは一応捨象して、そのものとしての説明を日本人の「経験」の構造に帰せざるをえないであろう。〔・・・〕その「経験」は、個人をではなく、二人あるいは複数の人間を定義するものである。これは単に仮設ではなく、現実であったのであり、また、現実である。それが「経験」である以上、人間にとって根源的であり、それを外部から矯正することは出来ない。たとえば親子関係の事実上の存在がそのまま「経験」のこれ以上分析を許されぬ単位になっている、と言うこと、この複合関係から個人が決して脱出出来ないということ、これは思うよりは遥かに深刻なことである。(森有正『木々は光を浴びて』1972年)