私は折に触れて言ってきたが、日本の空気を読む文化は根深い構造を持っている。
日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年) |
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この空気読み文化の原因がすべて日本語のせいだと断言するつもりはないにしろ、とはいえおそらく主因はやはり日本語にあるのではないか。
以下、今まで引用してきた文章群から、一般にもわかりやすいだろうと思われるものを抽出して列挙する。
◼️日本語は敬語であり、一人称も三人称もなく二人称しかない。 |
実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕 何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年) |
日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年) |
つまり日本文化は汝文化、二人称文化である。 |
「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年) |
いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収) |
日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
時枝には名高い風呂敷論がある。
◼️時枝誠記の風呂敷論 |
時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収) |
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主体的な総括機能或いは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めるならば、A is Bに於ける“is”であって所謂繋辞copulaである。copulaは即ち繋ぐことの表現である。印欧語に於いては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位して、これを統合する。従ってこれを象徴的に、A-Bの形によって表すのであって、copulaが繋辞と呼ばれる所以である。右のような総括方式における統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼んでいる。この様な形式に対して、国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。 花咲くか。 といった場合、主体の表現である疑問の「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包む且つ統一しているのである。この形式を仮に図をもって示すならば、 |
の如き形式を以て示すことが出来る。この統一形式は、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う。(時枝誠記『国語学原論』) |
この風呂敷についてはロラン・バルトが日本滞在記である『表徴の帝国』(新訳邦題『記号の国』)で触れている。
◼️ロラン・バルトによる風呂敷文化指摘 |
日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒(風呂敷)[une grande enveloppe vide de la parole]のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。 |
Ainsi, en japonais, la prolifération des suffixes fonctionnels et la complexité des enclitiques supposent que le sujet s'avance dans l'énonciation à travers des précautions, des reprises, des retards et des insistances dont le volume final (on ne saurait plus alors parler d'une simple ligne de mots) fait précisément du sujet une grande enveloppe vide de la parole, et non ce noyau plein qui est censé diriger nos phrases, de l'extérieur et de haut, en sorte que ce qui nous apparaît comme un excès de subjectivité (le japonais, dit-on, énonce des impressions, non des constats) est bien davantage une manière de dilution, d'hémorragie du sujet dans un langage parcellé, particulé, diffracté jusqu'au vide. |
(ロラン・バルト『表徴の帝国』1970年) |
ラカンはこのバルトに触れつつ、次のように語っている。 ◼️ラカンによる日本文化という見せかけ文化、礼儀作法文化 |
ロラン・バルトは日本の主体が無への覆い(風呂敷)以外の何ものでもないという陶酔的感覚を与えた。彼は自らのエッセーを 『表徴の帝国( L'Empire des signes)』(新訳邦題『記号の国』)と題しているが、 それは 『見せかけの帝国(l'empire des semblants)』を意味する。 |
C'est sans doute ce qui a donné à Roland Barthes ce sentiment enivré que de toutes ses manières le sujet japonais ne fait enveloppe à rien. L'Empire des signes, intitule-t-il son essai voulant dire : empire des semblants. |
(ラカン『リチュラテール(Lituraterre)』 AE19, 1971 年) |
主体がおのれの根源的同一化として、 唯一の徴にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ 」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係[relations de politesse]によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支えられるということである。日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法[lois de la politesse]のもとに置かれていることから、強化している。 |
…le statut du sujet. Qu'il s'appuie sur un ciel constellé, et non seulement sur le trait unaire, pour son identification fondamentale, explique qu'il ne puisse prendre appui que sur le Tu, c'est-à-dire sous toutes les formes grammaticales dont le moindre énoncé se varie des relations de politesse qu'il implique dans son signifié. La vérité y renforce la structure de fiction que j'y dénote, de ce que cette fiction soit soumise aux lois de la politesse. |
(Lacan, Lituraterre, Autres Écrits19, 1971年) |
上でラカンが「唯一の徴」と言っているのは、フロイトの自我理想の機能である。 |
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唯一の徴は、自我理想を形成する同一化のなかに主体を疎外する[le trait unaire qui,… aliène ce sujet dans l'identification première qui forme l'idéal du moi] (ラカン 、E808, 1960) |
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唯一の徴は理想として機能することになる原同一化の徴である[le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.](Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966) |
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自我理想、すなわちエディプス的父であり、事実上、ラカンの父の名である。 |
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自我理想は父の代理である[Ichideals …ist ihnen ein Vaterersatz.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、摘要、1921年) |
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ーー《ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」[Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien]( Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019) |
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先のラカンの言っていることは、日本ではこの自我理想、父の名の法の代わりに礼儀作法の法が国民集団の結合機能の役割を果たしているのではないか、ということである。これは事実上、先の森有正のいう二人称関係の法である。 このエディプスの法なき二者関係の場では次の事態が起こる。
ここでもう一度バルトに戻ろう。 |
(私たちの言語では)主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。私たちが社会に挑戦しようとするときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに馬鹿げていることであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。 |
le sujet et le dieu : chassez-les, ils reviennent, et c'est notre langue qu'ils chevauchent. Ces faits et bien d'autres persuadent combien il est dérisoire de vouloir contester notre société sans jamais penser les limites mêmes de la langue par laquelle (rapport instrumental) nous prétendons la contester : c'est vouloir détruire le loup en se logeant confortablement dans sa gueule. Ces exercices d'une grammaire aberrante auraient au moins l'avantage de porter le soupçon sur l'idéologie même de notre parole. |
(ロラン・バルト『記号の国』1970年) |
ここでバルトは主体と神ーー三者関係の機能ーーを口にすることにより欧米語の限界について言っているのだが、逆に日本文化の問題に対して挑戦しようとしても、二者関係的日本語の機能に不問なら、《狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなもの》であり馬鹿げている、という言い方ができる。
バルトはこの書でサピアウォーフの仮説について触れているが、ここではサピアの記述自体を抜き出そう。
サピアウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis:人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951) |
使用する言語が異なれば、世界は異なって見える。このサピアウォーフの仮説はニーチェに既にある。 |
ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。 ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen. ](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年) |
以上、日本社会に限って言えば、日本の空気を読む文化批判をしようとしても日本語の二人称構造を不問にしたままでそうするならーー繰り返せばーー《狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなもの》であり愚かしい。
私は、「互いに湿った瞳を交わし合い頷き合う」という表現を二人称関係を暗示するためにしばしば使うが、実際、それが典型的に現れているのがツイッター村社会であり、私には耐え難い。ーー《僕はある種の態度に我慢できない。自分が三人称になれないこと、そして話し相手が三人称になることを認められないこと。換言するなら、話し相手と相互に二人称の関係に入り、融合してしまい、自分自身及び話し相手が主観性を取り戻すことを認められないこと、このような態度が僕には我慢できない。/次の二つの態度を分つ本質的な相違について。一人称で話すこと、一人称で話すことは話すのだが一人称を二人称の中に流し込んで話すこと。》(森有正「日記」全集14所収)
さらにこの村では「互いに湿った瞳を交わし合い頷き合う」集団同士(クラスタ同士)の対立が生まれ互いに排除し合う。
浅田彰は7年前、次のように言っている、 |
ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞) |
あるいは、《都市の広場(アゴラ)という共通の土俵の上での論争ではなく、そもそも土俵を共有しない村同士の部族的(tribal)な対立が全面化してきたというメディア論的変容があるのではないか。》(浅田彰「トランプから/トランプへ(3)マクルーハンとトランプ、あるいはマス・メディア都市に対するトランプ村」2018年10月20日) |
実際、三者関係という共通の土俵なき、二者関係的村同士の部族対立が赤裸々に発生し、互いに排除し合ってコミュニケーションどころではないのがツイッター社会の現状ではないか。 |
………………
ここでいくらか違った意味合いをもっている箇所がないではないが、古井由吉を掲げておこう。
一人称の問題があると。それは当然二人称、三人称との関連になります。そうすると、歴史の問題じゃないかと思うわけね。その言語圏がどういう闘争を経てきたかという、それによるんじゃないかしら。 日本の中世近世からずっと見ると、それほど強い内部的な抗争は経てないというふうに思える。とにかく自他の区別をはっきりしないと、どうつけこまれるかわかりゃしないっていうような、そういうことが少なかったんでしょうね。その中で文章が丸く完成していって、近代に入ってからも、どっちかっていうと集団でふるまうでしょ。だからひょっとして「私」っていう立場が歴史的に薄いんじゃないか。〔・・・〕 |
これからどうするんだろうね。僕なんかもう残りの年が少ないから、もういいやと思っているけど、若い人はどうするんだろう。主語をはっきりさせて日本語が成り立つかどうかの問題があるんですよね。 社会生活の中で「私」っていうのは、自分は何者かということでしょ? 個人のことでもなくてね、その親の代から祖父の代から何者であるかっていうことのはずなんですよ。 で、文学はそれだけだったら駄目なはずですよね。そこで「私」に関するフィクションが出てくるんだと思うんです。ただ、フィクションと現実との間にどういう緊張があるかということではありませんか。「私」とは険しいものでね。(古井由吉「文芸思潮」2010初夏) |
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自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』1986年) |
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。〔・・・〕この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。(古井由吉『ムージル観念のエロス』1988年) |
さてどうだろう、X等のソーシャルメディアで発信を続けるつもりなら、腐敗臭漂う沼沢池ムラに嵌っておらずに、せめてそこから抜け出すべく工夫をしてみたら? 同じ見解の者同士の間で「湿った瞳を交わし合い頷き合っても」時間の無駄である。それでは「私」はいつまでも「私」のままである。為すべきは自分とは正反対の見解をもつ三人称的対象に向かって一人称的主体としてぶつかり合うことである。そのためには二人称関係に背を向ける文体の変容、スタイルの変容が是非とも必要不可欠であろう。
例えばフィクションの登場人物として振る舞えば、二者関係的引力から抜け出せる筈だ。
この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」1603年) |
ここにあるいっさいは、小説の登場人物によって語られているものと見なされるべきである[Tout ceci doit être considéré comme dit par un personnage de roman] (『彼自身によるロラン・バルト』1975年) |
それともやはり現状のままの「二人称的沼沢地ムラ」が居心地がよいのだろうか?
しばしば天皇制イデオロギー批判として取り上げられる丸山真男の「無責任の体系」だが、日本的無責任の真の根にあるのは主に日本語の二者関係的性格に起因する無思想・大勢順応主義である。 |
日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。 |
ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あそこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。 人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。 |
しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山昌男『丸山座談5』針生一郎との対談) |
賞賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある[Im Lobe ist mehr Zudringlichkeit, als im Tadel. ](ニーチェ『善悪の彼岸』170番、1886年) |
思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ[Es giebt einen Uebermuth der Guete, welcher sich wie Bosheit ausnimmt. ](ニーチェ『善悪の彼岸』184番) |
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賞讃。――君を賞讃しようとしていることが君に分かっている人が、ここにいる。君は唇をかむ。胸が締めつけられる。ああ、その聖杯が通り過ぎてくれればよい! しかし、それは通り過ぎない! やって来た。 では、讃辞を述べる者の媚びた恥知らずを飲もうではないか。彼の讃辞の核心に対する嫌悪と深い軽蔑とを押えよう。感謝の喜びの皺を顔中に寄せよう! ――彼はたしかにわれわれを喜ばせようとしたのだ! しかし今、それが起こってしまった後では、彼が自分を非常にすぐれていると感じているのがわれわれには分かる。彼はわれわれに勝利を収めた。――そうだ! 自分自身にも勝利を収めたのだ、こいつめ! ――なぜなら彼にとっては、こうした讃辞を自らに無理強いすることは容易なことではなくなったからである。 |
Das Loben. – Hier ist einer, dem du anmerkst, daß er dich loben will: du beißt die Lippen zusammen, das Herz wird geschnürt: ach, daß der Kelch vorüberginge! Aber er geht nicht, er kommt! Trinken wir also die süße Unverschämtheit des Lobredners, überwinden wir den Ekel und die tiefe Verachtung für den Kern seines Lobes, ziehen wir die Falten der dankbaren Freude übers Gesicht! – er hat uns ja wohltun wollen! Und jetzt, nachdem es geschehen, wissen wir, daß er sich sehr erhaben fühlt, er hat einen Sieg über uns errungen – ja! und auch über sich selber, der Hund! – denn es wurde ihm nicht leicht, sich dies Lob abzuringen. |
(ニーチェ『曙光』273番、1881年) |
最後に二者関係文体と見なされるだろう仕方でこう言っておこう、「わかるかい、そこのキミ?」
人称代名詞と呼ばれている代名詞、すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私」は想像界を発動し、「あなた」と「彼」はパラノイア(妄想)を発動する[ « je » mobilise l'imaginaire, « vous » et « il » la paranoïa]。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレの反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「moi, je」と言うとき、「私 je」は私 moiではない[« je » peut n'être pas moi]、ということがありうる。… 私は、サドがやっていたように、私に向かって「あなた vous」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体(“著者”)から切り離すためだ。(……)そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について《あたかもいくぶんか死んでいるもののように》、妄想的強調という薄い霧の中に捉われているものであるかのように語っている、という意味にもなりうるし、それはさらにまた、私は自分の登場人物に対して距離設定(異化 Verfremdung)をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなる。(『彼自身によるロラン・バルト』) |
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日本語的環境において最も注意しなければならないのは、書き言葉のレベルでは一人称的主体を確立させるよう努めている書き手でも、話し言葉のレベルでは二者関係的文体に陥ってしまう、例えばツイッター、例えばYouTubeなどにおける発話行為では。これが日本語の宿命であり、多くの人は後者のほうが親しみやすい、と感じ取っているように見えるが、これこそ日本語の不幸である。