当時ボクがサングラスをかけていたのは、たぐいまれなる純愛の眼差しを隠すためである。見よ、38才にもなってこんな眼をしている男を。
こういった眼差しをした男は女になめられる宿命をもっている。それゆえの黒メガネである。おわかりいただけるだろうか。
しかも未来の妻は、「触らないで、というものを身に纏っている 」(ケベード)キムスメとして現れたのである。
純愛に必要なものは距離である。 身近にいる限り倦怠を募らせるしかない女性を、 誠実に、永遠に、みのり豊かに愛し続けるには、その不在の影と戯れねばならない。残された一ふさの髪の毛で結ばれている母親との間には時間的な距離が拡がっているが、では、純愛を捧げるべき恋人との間には、いかなる距離を介在させることが可能か。すぐさま予想されるとおり、空間的な距離、つまりは地理的な拡がりがあればそれで充分だ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
当時はまだ当地に住む決断をしていなかったので、何度かの空間的な距離も生じた。それゆえのーー、ああ、あの懐かしき、あの至高の純愛!
しかもあの「触らないで、というものを身に纏っている乙女」を後に幸運にも触ってみたら、前代未聞のもち肌で陶然とすることシキリであった。女性というのは、なによりも肌が肝腎なのはよく知られている。
唯一の問題は、結婚生活とはクンデラの箴言を守れないことであった。
三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
いくら至高のもち肌の持ち主に対してでも、《身近にいる限り倦怠を募らせるしかない》などということが起こり得るのである・・・
ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)