人は人を理解しない
ひとりひとりの道が出会うことはない
それなのに密やかな音楽がそこに行き交う
人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽
その音楽はこの身体に覆われ密やかに息づいている
なにものかがこの身体を透して音楽している
ーーー音の静寂静寂の音(2000)高橋悠治 1 いまここに立つ
カップルを維持するために最も重要なことは二者関係にならないことである。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)
二者関係を続けると必ず次のような状況に陥る。
恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)
⋯⋯⋯⋯
映像だけで判断するわけにはいかないとはいえーー家庭ではクルターグ「少年」は、奥さんのマルタにがみがみ言われているかもしれないーー、とてもすばらしい夫婦にみえ、かぎりなく魅せられる。この二人には「音楽」という第三者があるのである。
◆Sonatina aus 'Actus tragicus' (BWV 106)- Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit
耳に聞こえる音が描く見えない地平を越えて
タマシヒは帰ってゆく
どこまで帰るのだろうとヒトは訝る
ーー谷川俊太郎『おやすみ神たち』より
◆Bach BWV 106 Actus tragicus - Sonatina (trasc. Kurtag)
ーー上の演奏は、クルターグ90歳時であり、マルタは88歳である。
音楽が曲の終りでディミヌエンドして
だんだん音がかすかになっていって
静けさに溶け入ってゆくときの
言葉がとうに尽きてしまった
絶え入るような世界の感触
私の耳で
タマシヒが
まどろんでいる
ーー同上、谷川俊太郎
⋯⋯⋯⋯
Duo Márta et György Kurtág, Bach / Kurtágにおいては、BWV106は、0.21.55と1.22.30ーーここではその前のBWV106の楽譜を探し出そうとする様子があまりにも微笑ましいので、1,20,00から貼り付けるーーに二回演奏される。
BWV106『神の時こそいと良き時』(Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit)は、バッハ22~23才のときの作品と言われる。
◆Bach - Cantate BWV106 "Actus Tragicus"