そもそも松本卓也やら立木康介やらなんてのは屑に過ぎないよ、それに至高の屑、斎藤環なんてのがいる(た?)けどな。あいつらはたんなるガキだ。ま、オベンキョウカ向けのラカンだ。あいつらの文は、一行読んだだけで鼻を摘みたくなる。ようするに日本「無知」共同体向けの寝言しか書かれていない。
だいたい「人はみな妄想する」を受け入れるなら、どうして人は論文形式で書きうるんだい?
論文形式ってのは、バルト曰くの「父性原理の権化」だ、ラカン曰くの「大学人の言説」だ。つまり妄想形式の権化さ。マツモトくんはとりわけ論文形式が好きな人物のようで、アイツは厚顔無恥という破廉恥なボク珍に過ぎない。
ようするに父の版の倒錯者だ。
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)
繰り返せば、論文形式とは、父の版の倒錯だ。研究者ってのは、父の版の倒錯者だ。学者共同体に所属してたらどうしてもそうなっちまう。だが、ラカンから学んだなら、せめてジジェクのようにヒステリーの言説で書かなくちゃいけない。
ま、たまには父の版の倒錯者でもいいさ、無知を啓蒙するのもときには大切だからな。かつまた人はみな金儲けと名誉欲に汲々としなくちゃな。だから自覚症状があればすこしは許容するよ、松本とか立木ってのは自覚症状ゼロだね。