ボクに言わせれば、二流のフェミニスト系現代思想の書を読むなんて、百害あって一利なしだよ。あの連中ってのは、コプチェクのいうように、《性を中性化し(⋯⋯)、性差からセクシャリティを取り除いてしまった》 (Sexual Difference : Joan Copjec、2012)オネエサンたちだよ。20世紀後半の最大の不幸だね。いまだってその後遺症をひどく引き摺っている。
あれら「カボチャ頭」の思想家を読むなんて、「真の女にとっては」不幸になるだけさ。安吾でも読んでたほうがずっといい。
亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)
《エロスは二つが一になることだよ l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux》、そんなことはありえないのだから、《きみはきみの幻想を享楽するだけだ Vous ne jouissez que de vos fantasmes》(Lacan, S19)
幻想を享楽する?
私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…
ラカンは1978年に言った、 ‘tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant'、すなわち「人はみな狂っている、人はみな妄想する」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)
ようは妄想を剰余享楽するってことさ、あるいは《享楽欠如の享楽 jouir du manque à jouir》(コレット・ソレール、2013)をするってことだな。
すべてが見せかけsemblant(仮象)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性関係の不在(性的非関係)である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の現実界)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)
ボクも妄想はすきさ、ああ、ボクノ情熱 passion! ボクノ受苦!
そのあいだも私は、アルベルチーヌが私にわたしたブロック・ノートの紙きれの、「私はあなたが好きよ Je vous aime bien」のことを考えていた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」)
とはいえボクのアルベルチーヌは、他の男の前で脱いじゃうんだな、ボクだけの前では梨のつぶてだったのに。
妄想を剰余享楽するのはいいさ、でもそれは妄想にすぎないってことを熟知しておかなくちゃな。それが安吾が次のように言ってることだよ。
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。
私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。
ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい 』1947年)
でも安吾はこう言っておいて、舌の根も乾かぬうちに、1947年9月、向島の料亭の娘三千代さんと結婚して生涯の伴侶としたんだよな。ま、そういうもんさ、オトコってのは。