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2018年9月18日火曜日

「欠如の欠如」と「穴」

不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、AE573、1976)

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欠如の欠如という不気味な刻限」に引き続く。

以下も、最初のジュパンチッチ以外は、前回と同様に以前に訳したもの。


◆アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005

ラカンの「欠如の欠如 Le manque du manque 」は、(現実界としての)対象aの概念に包含されるものである。その理由で、《不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet》(S10, 6 Mars l963)

「不気味なもの」の側に位置する「欠如の欠如」という定式を具体的に示すために、ひとつの事例を取り上げよう。毟り取られた眼のイメージである。…

このイメージの不気味な側面を分析するとき、人は通常、二つの事態を指摘するだろう。

①眼の代わりに、二つの空洞が顔のなかで大きく開いている。
②身体から引き離された眼自体は、幽霊のような不可能な対象として現れる。

第一の点について、人は空洞が怖ろしいのは欠如のせいだと想定しがちである。不定形の深淵へと引き込む空虚が恐いと。だが本当の幽霊的なものとはむしろ逆ではないだろうか?

すなわち無限の奈落、主体性の測り知れない底無しの側面への裂開をーー想像的水準でーー常に暗示するあの眼(人間の魂への開口として捉えられる眼)、その眼の代わりにある穴は、あまりに深みのない、あまりに限定されたものであり、眼の底はあまりに可視的で近くにありすぎる。

ゆえに怖ろしいものは、たんに欠如の顕現ではない。むしろ《欠如が欠けている manque vient à manquer》ことである。すなわち、欠如自体が取り除かれている。欠如はその支えを喪失している。人は言いうる、欠如はその象徴的あるいは想像的支えを喪失したとき「たんなる穴」、つまり対象になると。それは無である。文字通り見られうるものとして居残った無である。

同時に、いったん眼が眼窩から除かれたとき、それは即座に変容する、魂への開口から全く逆の過剰な「おぞましいもの abject」の開口へと。この意味で、毟り取られた眼は、絶対的な「剰余」である。それは、プラスとマイナス、欠如とその補填の象徴的経済のなかに再刻印されえない剰余である。
…ラカンは主張している、「去勢コンプレクス」は不安を分析するための最後の一歩ではないと。去勢コンプレクスは、フロイトの分析とホフマンの砂男における「不気味なもの」の分析の核であったが。ラカン曰く、もっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、《主体のなかに刻印されている構造的罅割れ vice de structure》があると。…

ラカンがフロイトを超えて進んでいった点は、去勢不安を退けた点にあるのではなく、テーブルをひっくり返した点にある。ラカンの主張は、不安の底には、去勢恐怖や去勢脅威ではなく、「去勢自体を喪う恐怖あるいは脅威」である。すなわち「欠如という象徴的支えを喪う」恐怖あるいは脅威である、ーー象徴的支えは去勢コンプレクスによって提供されているーー。これがラカンの不安の定式、《欠如が欠けている manque vient à manquer》が最終的に目指すものである。

不安の核心は「去勢不安」ではない。そうではなく、支えを喪う不安である。主体(そして主体の欲望)が象徴構造としての去勢のなかに持っている支えを喪う不安、これが核心である。この支えの喪失が幽霊的な対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如は、絶対的「過剰性」として象徴界のなかに現前する。この幽霊的対象は、「欲望の対象」を駆逐し、その場処に「欲望の原因」を顕現させる。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005、PDF


◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller, 6 juin 2001)
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009

袋小路はしばしば誤った前提の結果である。…フロイトによる「ペニス羨望」の議論、つまり少女が母から身を翻して父へと移行する動機としてペニス羨望を主張したとき、彼は常に数多くの他の動機に言及している。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。

核心は、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の対象であることから主体性への移行だと。どんな「ペニス羨望」や「去勢不安」より前に、子供--少女だけではなく少年も含んだどの子供も、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。

私はこの移行に、はるかに重要な基本的動機を認める。すなわち、最初の母子関係において、子供は身体的未発達のため、必然的に最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体として主体性のための障害である。

平明な言い方をすれば、子供と彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者関係-想像的関係性の典型であり、ラカンが鏡像理論にて描写した状況である。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安 primal anxiety」は母(あるいは最初の養育者)に向けられた二者関係にかかわる。無力な幼児は母を必要とする。ゆえに、明らかに「分離不安 separation anxiety 」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かない筈のその対応物を認知していた。すなわち母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「分離不安」とは別に、もう一つの原不安としての「融合不安 fusion anxiety 」と呼んでみよう。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。それにもかかわらず彼の論証過程において、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このようにフロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(elaboration)とさえ言いうる。原不安は、二つの対立する形態を取る。すなわち、他者が必要とされる時そこにいない不安(分離不安)、他者が過剰にそこにいる不安(融合不安)である。 (ポール・バーハウ 2009, PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains)

ーーポール・バーハウは2011年の講義では、融合不安を「侵入不安 intrusion anxiety」と言い換えている。これは、母なる大他者に侵入されて融合する(呑み込まれる)不安とともに、自らの身体の欲動に侵入されて圧倒される不安という意味の二つがあって、「侵入不安」は「融合不安」よりも広い意味合いがある。

ちなみに、自らの身体の欲動といっても、ラカンの定義上は、身体は大他者であったり、異者としての身体であったり、女であったりする。

大他者は身体である。 L'Autre …c'est le corps! (ラカン、S14,10 Mai 1967)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)