今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
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巷間で差別が話題になっているとき、最も苛立つのは、反差別的言明を高らかに言い放つリベラルインテリたちの「燻製ニシンの虚偽」である。
「燻製ニシンの虚偽 Red herring」:重要な事柄から受け手(聴き手、読み手、観客)の注意を逸らそうとする修辞上、文学上の技法(wiki)
あの「善良な」インテリたちは、なにから目を逸らしているのか。資本の論理という「差別システム」(差異を創出するシステム)の掌に、現在の新自由主義に生きる人々はみな乗っており、彼らの立場のほとんどは、勝ち組・負け組を創出するこのシステムにおける「勝ち組」でありながら、それを忘れたふりをしているのである。
より理論的にいえばーー「資本の論理(文献列挙)」で引用したがーー、《階級格差を生み出す》システムへの批判(吟味)が、リベラルインテリにおいては、ほとんど皆無であるということである。
株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, PDF)
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1996年『アリアドネからの糸』所収)
ジジェクによるビル・ゲイツ批判がある。
ビル・ゲイツには二つの顔がある。冷酷なビジネスマンとしての彼は競争相手を破滅させるか買収して、実質的な独占を目指す。目的を遂げるために商売上のあらゆる策略を練る。他方、人類の歴史上、最も偉大な博愛主義者としての彼は巧みに問いかける。「コンピュータを所有することは何に奉仕するというのでしょう、もし人びとが食べる物が充分になく、赤痢で死にかかっているのなら?」
リベラルなコミュニスト的倫理において、利益の無慈悲な追及は慈善活動によって中和される。慈善活動は経済搾取の顔を隠すヒューマニストの仮面である。膨大な超自我の脅迫(疚しい良心)のなかで、先進国は後進国を、援助や借款などで「助ける」。それによって鍵となる問題を避けるのだ、すなわち後進国の悲惨な状況における共犯関係と共同責任を。(ジジェク『暴力』2007)
ジジェクによるこれと同様の批判は何度も何度も繰り返されているが、たとえば最近でもこう言っている。
アップルのCEOティム・クックは、奴隷状況 slave conditionsでアップル製品を組み立てている中国でのフォックスコン Foxconn 労働者(自殺者たちが続出していることで知られる:引用者)について容易に忘れることができる。彼は社会的弱者との団結の大きなジェスチャーをして、ジェンダー差別の廃止を要求する。しばしばそうであるように、巨大ビジネスは、ポリティカルコレクト理論と誇り高く連帯するのだ。(THE SEXUAL IS POLITICAL BY SLAVOJ ŽIŽEK , 2016)
これがジジェクが、ビル・ゲイツの博愛主義は、《「客観的暴力」(システム的暴力)として機能している。現在の経済政治システムをスムーズな機能の温存のための完璧な「燻製にしんの虚偽」として機能している》(『暴力』)という理由である。
「資本の論理」にたいして選択的非注意に終始し、新自由主義の釈迦の掌で善人のふりをしているリベラルインテリとは、差別主義者の仮面にすぎない。すくなくとも人はつねにそう疑わなければならない。日本言論界には、小粒のビル・ゲイツとティム・クックたちが破廉恥かつ厚顔無恥に跳梁跋扈している。
ここでさらに大切なのは、システム的暴力としての差異の論理(資本の論理)の掌に乗った上での「善い選択」は(たとえばポリティカルコレクトネス)は、システム的暴力という支配的イデオロギーを強化することである。
要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant 2008, PDF)
上に《リベラルインテリとは、差別主義者の仮面にすぎない》と記したが、穏やかに言えば、あれら「善意あふれる」リベラル左翼とは《人間の顔をした資本主義者》である。
(もちろん「資本の論理」をときに批判しつつも実のところはその世界で安穏と生き長らえてきたこの蚊居肢子だって差別主義者である。その自覚がまったくない連中よりはいくらかマシだろうというだけだ。)
ーーああ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しき魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども!》(ニーチェ『この人を見よ』)
資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては"人間の顔をした社会主義"を求めたのに、今の左翼は"人間の顔をしたグローバル資本主義"で妥協する。それでいいのか? (ジジェク「あれから40年、我々は今?」 2008)
(もちろん「資本の論理」をときに批判しつつも実のところはその世界で安穏と生き長らえてきたこの蚊居肢子だって差別主義者である。その自覚がまったくない連中よりはいくらかマシだろうというだけだ。)
ーーああ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しき魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども!》(ニーチェ『この人を見よ』)