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2018年9月27日木曜日

反家父長制という家父長原理

また文句を言ってこられるフェミの方がいるが、ボクはもう何度も記した。いままで引用したことを再掲するほかない。


【父の機能の意味】
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

フロイト・ラカン派における第三者とは次の図の自我理想のこと。

(コレット・ソレールによるフロイトの『集団心理学と自我の分析』図の簡略図)

ーーこの図は自我理想があるからこそ、各自我の連帯を生むという意味。

自我理想とは、アーレントのいう権威としてもよい。《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

自我理想(父の名)が空位なら、各自我は二者関係的になる(喧嘩がはじまる)。




夫婦関係においては子供が第三項として機能する場合だってある。




オシドリ夫婦と呼ばれるカップルには、必ず第三項があるはずである。たとえばクルターグ夫妻の第三項は「音楽」である。






【父の名の使用】

肝腎なのは支配の論理に陥りがちになる父の名ではなく父の名の使用。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


【父の原理】

柄谷行人の帝国の原理とは、ラカンの父の名の使用と機能的には等価。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)


【日本においての家父長制の権威はなかった】

日本においては戦前の疑似一神教的天皇制の時期以外には、家父長制はなかった。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」(=自我理想)であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。⋯⋯(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)


【母性的な共感の共同体】

代りになにがあるのかといえば、 せいぜい母性的な共感の共同体(これは二項関係の裏返し)。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


【日本には言語による経典を守る気風はない】
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年初出『記憶の肖像』所収)
一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」


【父の名は母子二者関係の上に課されなければならない】

フロイト・ラカン的には、母子の二者関係的なあり方の上に第三項(父の機能)が課されなければならない。それは冒頭にも記した。

「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(ミレール『大他者なき大他者』2013)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母と子供の関係は二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

⋯⋯⋯⋯

というわけで、日本フェミニズムにおいては実際は母権性打倒という考え方が必要というのが、上に引用した内容からボクが何度か示している観点。

日本は、中井久夫がいう一神教的《言語による経典が絶対の世界》ではまったくないのだから、ある程度は、言語による統制という父の機能が必要だということ。

日本における権力の場にいる「イメージとしての男」の形象に騙されてはいけないのである。あれらは実際は「女」である。日本における権力の構造は二者関係的な「母性的なもの」である。言語ではなく空気で動く権力である。

※フロイト・ラカン的な「女」の意味は、「原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである」を参照。

 ま、母権性打倒というのは、いくらか挑発的な言葉の綾だとしてもいいよ。言語の統制をもうすこししっかりやりましょう、オトウサンたちよ! でいいよ。

そもそも、フェミニスト運動における「反家父長制」というスローガンはーー日本的環境ではピントのずれたスローガンであろうとーー「家父長原理」(父の機能)として、フェミニスト各人の連帯を生んでいる筈だよ、これぐらいは、お認めになる⋯ンジャナイデショウカ?




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