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2018年10月1日月曜日

芸術かぶれの馬鹿な女ほど怖いものはない

あらためて読み返してみると、三島由紀夫は実にとんでもないことを言ってるんだな。いまさらだけど。

女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、という考えに熱中するあまり、すっかり自分が高まっちゃった、と思い込むことであります。(三島由紀夫「反貞女大学」)
若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、 昔の長唄やお茶の稽古事のやうな稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、 それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。 そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。 (三島由紀夫「芸術ばやり──風俗時評」)
・女性は抽象精神とは無縁の徒である。 音楽と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまう。 構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、 これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。 私は湿気の高い感性的芸術のえんえんと続いてきた日本の文学史を呪わずにはいられない。

・実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。 女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。 あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」)

現在のポリコレ時代には、実際には「仮に」こう思っていても、決して言えないことだよな。

女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は微妙に侮蔑と結びついてゐる。 (谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものはないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。 しかし氏にとつての関心は、婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。 エロスの言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。 (三島由紀夫「谷崎潤一郎について」)
大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。 女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。 事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。 しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」)

この三島由紀夫の発言を萩原朔太郎の「女嫌い」論とともに読むと、まだ朔太郎のほうがずっとましだな。

女嫌いとは何だろうか? 「自分の嫌うところは」と、定評あるストリンドベルヒが正直に答えて居る。「女の気質や性格であって、肉体に属するものではない。」と。同様にショーペンハウエルが、彼の哲学で罵倒しながら、彼の膝の上で若い女を愛撫して居た。すべての女嫌いについて、定義し得るところはこうである。人格としてでなく、単に肉塊として、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。(婦人に対して、これほど憎悪の感情をむき出しにした、冒涜の思想があるだろうか。)

しかしながら一方では、それほど観念的でないところの、多数の有りふれた人々が居り、同様の見解を抱いている。殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対してどんな精神上の要求も持っていない。女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎないのである。しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等は、決してどんな場合に於ても、女性への毒舌や侮辱を言わないから。

然る一方で、何故に或る人たちが、常に女性を目の敵にして、毒舌や侮辱をあえてするのだろうか。(それによって彼等は、女嫌いと呼ばれるのである。)けだしその種の人々は、初めから女に対して、単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格やを、真面目に求めているからである。女がもし、単なる肉であるとすれば、もとより要求するところもなく、不満するところもないだろう。彼等もまた世間多数の男と同じく、無邪気に脂肪の美を讃美し、多分にもれない女好きであるだろう。それ故に女嫌いとは? 或る騎士的情熱の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。然り! すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直なロマンチストにすぎないのである。(萩原朔太郎『虚妄の正義』)

と記して思い出したが、ラカン派の藤田博史氏は勇敢な男だよ、彼は女性作家の参加もある自らのセミネールでこう言ってるんだから。

いつも思うのですが、女性というのは厄介な生き物ですね。わたしは生まれ変わることがあっても必ず男になりたい。女性として生きるというのは想像しただけでも立ちくらみがします。(藤田博史2012年「摂食障害の治療技法」セミネール断章 、PDF

※追加(2024年6月5日)

▶︎参照:藤田博史氏の「摂食障害の治療技法」セミネール録