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2018年10月25日木曜日

女は何を欲するのか Was will das Weib?




Ernest Jonesの”Life and Work “(1953) によれば、フロイトが Marie Bonaparte に言ったとされる「女は何を本当に欲するのか Was will eine Frau eigentlich?」ーーラカンは「女は何を欲するのか Was will das Weib? 」と引用しているーーの独原文は、こうらしい。

Die große Frage, die ich trotz meines dreißigjährigen Studiums der weiblichen Seele nicht zu beantworten vermag, lautet: "Was will eine Frau eigentlich?"

三十年ものあいだ、女性の魂を探求したにもかかわらず、私が答えることができない大きな謎とは、「女は何を本当に欲するのか Was will eine Frau eigentlich?」である。

いやあ、でもこうでいいんじゃないか?

女が欲するものは、神もまた欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.(アルフレッド・ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838年)

で、神が欲するものはやっぱりなんだかわからない。

男が欲するものはよく知られている。女とヤリタイのである・・・

ところが男はいったんひとりの女とヤルと別の女とヤリたくなる。

したがって、

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)

となる。あるいは、

女性の好意は、段々に、ゆっくりとふり撒くことをおすすめする。プラトンは、いかなる種類の愛においても、受け身に廻る者はあっさりと性急に降参してはならないと言っている。そんなに軽率に、すべてを投げ出して降参するのは、がつがつしていることのしるしで、これはあらゆる技巧をこらして隠さなければならない。女性が愛情をふり撒くのに、秩序と節度を守るならば、一段とうまくわれわれの欲望をだまし、自分らの欲望を隠すことができる。いつもわれわれの前から逃げるのがよい。捕まえてもらいたい女性でもそうするのがよい。スキュティア族のように、逃げることによってかえってわれわれを打ち負かすのである。(モンテーニュ『エセー』)


さらには、

ファウスト

もし、美しいお嬢さん schönes Fräulein。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。


マルガレエテ

わたくしはお嬢さんFräulein ではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。


ファウスト

途方もない好い女だ。Beim Himmel, dieses Kind ist schön!
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。


(メフィストフェレス登場。)

おい。あの女 Dirne を己の手に入れてくれ。
(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)


女とは、「白い障子に影をうつして一人廊下を通る」ときが最も美しいのである。

谿を隔てた 山の旅籠の私の部屋
その窻の鳥籠に 窻掛けの裾がかかつてゐる
白い障子に影をうつして 女が一人廊下を通る
ああこのやうな日であつた 梶井君 君と田舍で暮したのも

(三好達治 「檸檬」の著者 )

もっとも女性は、いつまでも「少しはつんけん」して「白い障子に影をうつし」続けるわけにはいられない場合もあるだろう。

 とはいえ男はいったんヤッテしまうと、次のことがおおむねわかる。

女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』)


したがって、《世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし》(太田南畝)となる。

とはいえ、こうでもある。

かつて「ジンプリチシムス Simplicissimus」(ウィーンの風刺新聞)に載った、女についての皮肉な見解がある。一方の男が、女性の欠点と厄介な性質 die Schwächen und Schwierigkeiten des schöneren Geschlechts について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ Die Frau ist aber doch das Beste, was wir in der Art haben』。(フロイト 『素人分析の問題』1927年 後書)

つまりは、《世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい》(太田南畝)である。

これらは、まともな作家ならすでに何度もくり返していることである。

女と猫は、呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る(メリメ『カルメン』)
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。(九鬼周造『いきの構造』)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

 私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。

 ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい 』)
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

いままで記したこととはいくらか反するが、とくに次のようなタイプの男には細心の用心が必要である。

誘惑者というものは、相手を手に入れること自体よりも、手に入れるまでのプロセスを愉しむものである。従って、その過程が複雑になればなるほど、その愉しみも大きくなる。場合によっては、わざとそのプロセスを複雑にすることさえある。(『危険な関係』の)ヴァルモンもその例外ではない。(吉行淳之介「遊戯的恋愛」)

特に若き「旺盛さ」を喪った初老のエロ事師などは最も危険なタイプです。

ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)


 女性のみなさん、オキヲツケを!


ーーいやあシツレイしました、昭和男の戯言です。いまは平成どころか新しい年号の若者たちが生まれる時代です。こんな心配はきっとありません。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? ")


《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

《女が男の徳をもっているなら、逃げだすがよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす。》(ニーチェ「箴言と矢」28番『偶像の黄昏』)


何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998)


西脇の次の詩句は実に深淵であり、あらゆる読み方が可能である・・・

けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを

(⋯⋯)
路ばたにマンダラゲが咲く

ーー西脇順三郎『禮記』