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2018年10月24日水曜日

穴Ⱥと「穴のヴェールとしての愛の対象」

【aとi(a)】
愛自体は「見せかけ semblant」 に宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)




問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることだできるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes)
現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18、20 Janvier 1971)


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【イマージュと無 rien】
確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)
イマージュは対象a(欲望の原因としての対象a) を隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)





・象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage

・現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire 。(S25、10 Janvier 1978)
症状(原症状=サントーム sinthome[S(Ⱥ)])は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
無、たぶん?  いや、ーーたぶん無でありながら、無ではないもの
Rien, peut-être ? non pas – peut-être rien, mais pas rien(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーーBarbara Cassin による超訳、《無ではなく、無以下のもの Pas rien, mais moins que rien (Not nothing, but less than nothing)》

現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない  Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(Lacan, S23, 16 Mars 1976)


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【モノとȺ】
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


【 (- φ) と(- J)とモノ】
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、⋯欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を生みだす。(Lacan、AE573、1976)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


【原対象aと穴Ⱥ】
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
穴としての対象a [En tant que trou, l'objet a] (MILLER, J.-A., La Cause du désir, no 94, navarin éditeurs, p. 21)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)
喪われたものune perteとしての「穴 trou」とは、自然に喪われたもの une perte naturelleである。(Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)



【LȺ Mère (斜線を引かれた母なる大他者)と享楽の空胞 vacuole de la jouissance】
僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)





(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959ーーモノと対象a
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)

※なおここまで二つ示したボロメオ結びの変奏図は、セミネール20における「享楽の図」とボロメオを結合させることによって書き直したものである。


「享楽の図」再考



【去勢 (- φ) と廃墟になった享楽(- J)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【穴と見せかけ】
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)


MILLER - 09/03/2011

ーー無意識の主体 ICS と享楽 J とのあいだの a は、穴Ⱥーー(- φ) ,(- J)ーーとしての aでもあると捉えられないでもないが、基本的には穴埋めとしての a である(参照:対象aの三義性)。

-φの上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)



そもそもS(Ⱥ)自体が、最初の穴埋めのシニフィアン(穴の境界表象)である。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

このコンテクストにおいては、ミレールは次のように書いている。



 ーーこのあたりは対象aの三意義性を把握していないと、何のことだが分からなくなる。

実際、主流ラカン派の2018年の会議においても、S(Ⱥ)かつ「文字対象a[ la lettre petit a]」に相当する「骨象 L'objet (a),  « osbjet ».が、現実界的対象a として主要議題になっている(L'objet (a), semblant et « osbjet ».)。

骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]( Lacan, S23、11 Mai 1976)

そもそもラカン注釈の第一人者ミレール自身が彷徨っているという言い方さえでき、ここでわたくしが記していることもあくまで現時点での「想定」である。

ラカンの「大他者の大他者はない」というテーゼは、ラカン理論を支えるものは何もないということでもある。ラカン自身、最晩年には想像界の復権と捉えられないでもないことを言っている。

人は、現実界のイデアを自ら得るために、想像界を使う On recourt donc à l'imaginaire pour se faire une idée du réel 。あなた方は、« イデアを自ら得る se faire une idée »と書かねばならない。私は、《球面 sphère 》としての想像界と書く。想像界が意味するものを明瞭に理解するためには、こうせねばならない。(ラカン、S24 16 Novembre 1976)

あるいはセミネール23においては、真の穴 Vrai Trou としてS(Ⱥ)が位置する場ーー想像界と現実界との重なり箇所ーーを指し示している。




わたくしがここで記しているのは、S(Ⱥ)ーー穴のシニフィアンーーと穴Ⱥとのあいだの識別だが、これが必ずしも正しいわけではない。すくなくともS(Ⱥ)とȺとのあいだには遡及的な関係がある。S(Ⱥ)があってのȺなのである。S(Ⱥ)の最も簡潔な定義として、わたくしは母なる大他者による「身体の上への刻印」という定義をとる。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」(=原抑圧)あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)


さて元に戻る。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の現実界)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)



ーー固着とは原抑圧のことである。

ロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 ーーS(Ⱥ)と「S2なきS1」
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序のなかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012ーー欠如と穴(簡略版)


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【血のネプチューンとメドゥーサの首】

愛するものを歌うのはよい。しかしああ、あの底ふかくかくれ棲む
罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別のことだ。


ああ、いかに奇怪なものをしたたらしながらその巨大な頭をもたげたことだろう、
夜を呼び起こして果てしない擾乱へと駆り立てながら
おお、血のネプチューン、恐ろしいその大戟、
おお、ねじくれた法螺貝を吹きどよもす胸底からの暗い息吹よ。

聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt (リルケ、ドゥイノ、第三の悲歌 手塚富雄訳)

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)



私の恐ろしい女主人とメドゥーサの首】
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85]


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【根源的な愛の対象】
人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)
母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年ーー女性一般と男性の同性愛者における「母との同一化」
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst(ナルシシズム)。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)
我々はフロイトの次の仮説から始める。
・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。
我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ジャック=アラン・ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour、1992)


 欲望の対象 objet du désir と欲望の原因 cause du désir  】
ラカンのセミネールⅩ「不安」にて興味深いのは、愛が、享楽と欲望とのあいだの仲介 médiateurだとされることである。愛は「欲望の原因 cause du désir」としての対象a を置換あるいは歪曲してdéplace ou falsifie petit a 、「欲望の目標 objet-visé」に移行させる。愛は、対象aをアガルマ agalma にするのである。(Introduction à la lecture du Séminaire de L'angoisse de Jacques Lacan、Jacques-Alain Miller、2004)



幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象a)とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望する人のこと。逆に「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象)とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の対象-原因 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これは、フロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する空虚としての対象a、そしてこの空虚を埋め合わせる魅惑要素としての対象aがある。…人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」、アガルマが覆っている空虚を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

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【愛する理由は「欲望の原因としての対象a」にある】

私はあなたを愛する。だが私は、あなたの中のなにかあなた以上のもの、〈対象a〉(欲望の原因)を愛する。だからこそ私はあなたを八つ裂きにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、S11、24 Juin 1964)
幸いにしてわたしには、八つ裂き zerreissen にされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くzerreisst のだ …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ Mänaden〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……(ニーチェ『この人を見よ』)
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》(プルースト 「見出された時」)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理vérité》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルースト とシーニュ』)
われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux. (……)

われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイメージ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイメージである。しかしもっと深いところでは、根源的な差異とはわれわれの経験を越えた遠いイメージ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。それはわれわれが愛するひとたち、そしてわれわれが愛するただひとりのひとにさえ、分散するにはあまりにも豊かなイメージであり、イデアあるいは本質である。しかしそれはまたわれわれの連続する愛の中で、また孤立して捉えられたそれぞれのわれわれの愛の中で反復されるものである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

⋯⋯⋯⋯


【母と引力(ブラックホール)】

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(⋯⋯)

 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)




私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même .(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung ⋯⋯⋯フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、 03 Juin 1964 )
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、Colette Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)