相手の男が近寄ってくるのを待ち、しばらくお前のまわりをぶらつかせておくこと。誘惑してきたら、すこし驚いてみせなくてはいけない。相手を見て、何も知らないような顔をすべきかどうか判断することが肝心だ……(ジャン・ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)
【おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、あの一種のけげんそうなまなざし】
夕闇がおりてきた、ひきかえさなくてはならなかった、私はエルスチールを彼の別荘のほうに送っていった、そのとき突然、ファウストのまえに立ちあらわれるメフィストフェレスのように、通路の向こうの端にーー私のような病弱者、知性と苦しい感受性との過剰者には、およそ縁のない、ほとんど野蛮残酷ともいうべき生活力、私の気質とは正反対な気質の、非現実的な、悪魔的な客観化であるかのようにーーほかのどんなものとも混同することのできないエッセンスの斑点のいくつか、あの少女たちの植虫群体をなすさんご虫のいくつかが、ぱっとあらわれたが、彼女らは私を見ないふりをしながら、私に皮肉な判断をくだそうとしていることはうたがいをいれなかった。(……)
折から私たちが通りかかっているアンティックの店のショー・ウィンドーのほうへ、まるで急にそれに興味をおぼえたように、身をかがめたが、そんな少女たちよりもほかのことを考えることができる、というふりをするのは自分でもわるい気がしなかった、そしてエルスチールが私を紹介しようとして呼ぶとき、おどろきそのものをあらわしているのではなく、おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、あの一種のけげんそうなまなざしを自分がするだろうことを、私はすでにひそかに予知していたしーーそんな場合、誰しもわれわれは下手な役者であり、相手の傍観者は上手な人相見だーーまた指で自分の胸をさしながら、「私をお呼びですか?」とたずね、知りたくもない人たちに紹介されるために、古陶器の鑑賞からひきはなされた不快を顔につめたくかくし、従順と素直とに頭をたれ、いそいで自分が走ってゆくであろうことを、私は予知していた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)
【ぼんやりと気のなさそうなようすをあらわそうとした】
彼(シュルリュス男爵)はポケットから手帖を出し、ポスターにある芝居の外題を写しとるふうを装い、二、三度時計をとりだし、黒のむぎわら帽を目深におろし、誰かきたのではないかと見るようにして手をかざして目庇をつくり、ずいぶん待たされたことを人に見せつけるような、実際に待っているときはけっしてわれわれのやらない、不満そうな身ぶりをし、それから、こんどは帽子をあみだにして、頭の上は短く平に刈りあげているのが両側にはかなり長い鳩翼状のウェーヴがついた鬢を残しているその髪形を見せながら、あまり暑くもないのに暑くてたまらないようすを見せたいと思う人がよくやるように、ふうっと音を立てて息を吐いた。
私はホテル破落戸〔ごろ〕かと思った、その男なら、まえから祖母と私とをつけねらっているらしいので、何かわるいことをたくらんで私の隙をうかがっているところを不意に見つけられたことに気がつき、私の目をごまかすために、おそらく急に態度を変え、ぼんやりと気のなさそうなようすをあらわそうとしたのだが、それがあまり強く誇張されたので、彼の目的は、すくなくとも、私が抱いたと思われる疑念を一掃することにあったと同時に、私が無意識のうちに彼に加えたかもしれない侮蔑のしっぺいがえしをやること、おまえは人の注意をひくほど大した人間ではない、そんなおまえをおれは見ていたのではない、という考えを私に植えつけることであるように思われるのであった。
彼は挑戦的な態度でぐっと肩を張り、唇をかみ、ひげをひねりあげ、そのまなざしのなかに、冷淡な、冷酷な、ほとんど侮蔑的なと思われるものを溶けこませていた。したがって、そんな表情の特殊性が、彼をどろぼうではないか、それとも精神病者ではないか、と私に考えさせるのであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
…………
私は監獄で「花咲く乙女たちのかげに」を読んだ。最初の巻だ。我々は監獄の中庭にいて、こっそり本を交換していた。戦争中のことだった。さほど本に気を取られていなかったので、私は後回しだった。「ほれ、おまえのぶんだ」と言われた。それがマルセル・プルーストだった。私は独語した。「こりゃ、きっとうんざりさせられるぞ」。ところがだ。どうか、私のいうことを信じて欲しい。かならずしもいつも私があなたに対して誠実ではないとしても、これだけは信じてもらいたい。私は「花咲く乙女たちのかげに」の出だしのフレーズを読んだ。それはプルーストつまり書き手の父母の家に、夕食に招かれたノルポワ氏を紹介する場面だ。そのフレーズはとても長い。そこを読み終えたとき、私は本を閉じ、自分に言い聞かせた。「もう、心配無用だ。これから私はめくるめく想いをするに違いない」。最初のフレーズは密で美しかった。この胸の高鳴りが燎原の火をもたらす最初の炎だった。元に戻るのにほとんど丸一日かかった。夜になって、ようやく私は再び本を開いた。そして、まさしく、めくるめく想いが押し寄せてくるのだった。(Jean Genet L'ennemi declare)