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2019年2月11日月曜日

悲劇はこういうことです

何度かくり返して示しているけれど、21世紀に入ってからの柄谷行人の思考の核心は次の図だ(参照)。



これは、ラカンのボロメオの環で示せば、次の通り。




Σ(三つの環の留め金)は、上にあるようにマルクスの「アソシエーション」であったり、カントの「世界共和国」であったり、最近では独自の概念「帝国の原理」であったりする。

この三つのベースは「コミュニズム」だ。そう言ってしまうとウケがわるいから言わないだけで。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ーーいまさら「コミュニズム」なんて、という人が多いんだろうからな、でもバディウ曰くの「新しいコミュニズム」だ。

マルクス主義者ジジェクの図式もベースは柄谷と同様。



the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy (ZIZEK, Iraq: The Borrowed Kettle、2004)

で、ジジェクにとってΣの箇所はなんだかっていうと、コミュニズムと口に出しているのは当然だが、こうも言っている、《悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです》(ジジェク、今や領野は開かれた、2011


だから世界は、いや日本は、としておこう、浅墓な社会学者、政治学者らが跳梁跋扈する。




浅墓な、ってのか、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄=菊池寛)が日本言論界を支配してるとしか言いようがないな。

政治学者はとてつもない経済音痴ばかりだ。社会学者も同様だ。

経済学者は・・・ーーボクは学生時代、かなり熱心にマルクス読んでたからな、ーーマルクスに関心がない経済学者はキライだね。ようするに大半の経済学者はキライってことだ。

でも4、5年まえ、3ヵ月ぐらいのあいだ10人前後の経済学者の論文を勉強したことがあるんだけど、彼らは社会学者やら政治学者やらよりはまだまともだな、ポジションがそうさせるには違いないが。

たとえば《消費税を 2014 年から 2023 年までの 10 年間、毎年 1 月に 2 ポイントずつ引き上げ、23 年の 1 月以降 25%にするケース》(深尾光洋「日本の財政赤字の維持可能性」2012 年)ってのは、当然あるべきーーいやこれ以外ありそうもないーー選択肢だったんだが、この今になっても10パーセントにするだけで騒いでいるインテリがほとんどだからな、どうしてあんなマヌケなんだろ? 

2パーセントってのは、わずか5~6兆円だけで、社会保障費年2.5兆円延びてるんだから、わずか2年でおじゃんだぜ。ま、連中はそういったことにも無知に決まっていて、マヌケはいつまでもマヌケのままってわけだ。

2006年度の90兆円から15年度の115兆円に膨張、つまり年平均で約2.5兆円のペースで増加している。他方、消費税率1%の引上げで手に入る税の増収分は約2.5兆円であり、社会保障給付費は消費税率1%の増収分に相当するスピードで伸びている。(歴史的に特異な状況にある日本財政、小黒一正 2018/04

ところで、思想家ってのは、やっぱりΣのポジションに置かれるべき、あるいはΣのことを考える種族じゃないだろうかね。現在日本にはそんな思想家は皆無に近いけどさ。マルクスが現在の日本をみたら、きみたち、なにやってんだ、なぜあの財政赤字の悲惨さをみない? と必ず言うはずだがな。

哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのは世界を変えることである。Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretirt; es kommt aber darauf an, sie zu verändern.(マルクス『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第十一)

ーーかんたんには変らないね、世界は。世界はあとまわしにしても、あれら社会学者、あれら政治学者、あれら思想家っていうのはなんとかならないもんか。ナゼシンデクレナイダロ? そうしたら世界はすこしは変わるのに。

そもそも新自由主義の時代の現在ってのは「経済」の時代に決まってんだろ、なぜそこを端折って、社会学者や政治学者、思想家はものを言えるんだろ?

あまり難しいことを言わずに、つまり世界のΣなんてことを求めずに、すくなくとも現在の日本的文脈の最も基本的なレベルだっていいさ、「わたしの消費税、あるいは国民負担率の考え方はこうです」と最低限は宣言してから、彼らはものを言うべきじゃないだろうか?

もう経済学者たちによるデータあげるのやめて、大前研一の簡潔な文だけ掲げるけどさ。

これからの日本の最大の論点は、少子高齢化で借金を返す人が激減する中、膨張する約1000兆円超の巨大な国家債務にどう対処していくのか、という点に尽きます。

私は、このままいけば、日本のギリシャ化は不可避であろうと思います。歳出削減もできない、増税も嫌だということであれば、もうデフォルト以外に道は残されていません。

日本国債がデフォルトとなれば必ずハイパーインフレが起こります。(大前研一「日本が突入するハイパーインフレの世界。企業とあなたは何に投資するべきか」2017


なぜ、これに無関心で言論活動できるんだろ、あれら社会学者、あれら政治学者、あれら思想家は? それともひそかなデフォルト待望論者なのかね。デフォルトがおこっても「弱者」が困窮するだけで、ボクたちはなんとかなるさ、と思ってるんだろうか。だったら最悪の差別主義者だな。短期的な弱者擁護、マイノリティ擁護という立場の「善意の衣装」を着た道化師たちばかりだ。

ま、でもいまさら何いっても遅いさ、もはや国債の低金利がいつまでもつかだけだ、デフォルトを延期させる道はそれしかない、ーーっていうと文化的な日本人は反発するんだろうがね。それなりの高い教養をもっていそうなインテリでさえ、経済に関してはすこぶる「礼儀正しい」ヤツラがそろっているからな。

大前にひきつづき、ごく通俗的かつごく常識的なアタリを引こう。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである。…

国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である。…過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない。…増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。…これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう。(ジャック・アタリ『国家債務危機』)

なぜ、この観点さえないんだろ、たとえば政治学者たちは? 財政逼迫が現在の日本政治のすべてを「無意識的に」動かしている筈なのに。



ま、経済成長はムリに決まってんだ、△にしたけど。人口が1%づつ減る国で、継続的に1パーセント超えの経済成長があるなどということは奇跡でもないかぎりありえない。

結局、日本人ってのは「小粒のチトーたち」が揃ってるんだろうな。で、チトーの側近である官僚たちは、東京オリンッピクやら大阪万博やらを捻出しているわけだ。

いくつかの公文書や回想録によると、1970年代半ば、チトーの側近たちはユーゴスラヴィアの経済が壊滅的であることを知っていた。しかし、チトーに死期が迫っていたため、側近たちはかたらって危険の勃発をチトーの死後まで先延ばしにすることに決めた。その結果、チトーの晩年には外国からの借款が急速に膨れ上がり、ユーゴスラヴィアは、ヒッチコックの『サイコ』に出てくる裕福な銀行家の言葉を借りれば、金の力で不幸を遠ざけていた。1980年にチトーが死ぬと、ついに破滅的な経済危機が勃発し、生活水準は40パーセントも下落し、民族間の緊張が高まり、そして民族間紛争がとうとう国を滅ぼした。適切に危機に対処すべきタイミングを逃したせいだ。ユーゴスラヴィアにとって命取りとなったのは、指導者に何も知らせず、幸せなまま死なせようという側近たちの決断だったといってもいい。

これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。私のそばにいる人がたまたま不愉快な騒音を立てたとき、私がとるべき正しい対応は無視することであって、「わざとやったんじゃないってことはわかっているから、心配しなくていいよ、全然大したことじゃないんだから」などと言って慰めることではない。……(文化が科学に敵対するのはこの理由による。科学は知への容赦ない欲動に支えられているが、文化とは知らない/気づいていないふりをすることである)。

この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。(ジジェク『ラカンはこう読め』「日本語版への序文」)

ここでジジェクが言っている《ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民》とは、通常の意味の大他者(の国)ではなく、「見せかけの帝国」の意味だ。

ロラン・バルトは自分のエッセーを 『表徴の帝国』 L'Empire des signes と題しているが、 それは 『見せかけの帝国』 l'empire des semblantsを意味する。(ラカン、リチュラテール.Lituraterre 1971)

ボクは「日本人をやる」のはほんとに向かなかったからな。「知らない(気づかない)ふりをし、起きていることがあたかも起きていないかのように行動し続ける」礼儀正しい文化的日本人やるのは。

主体がおのれの基本的同一化として、 「唯一の徴 le trait unaire」にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。

日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法のもとに置かれていることから、強化している。 (ラカン、「リチュラテール Lituraterre, 1971, Autres Écrits所収)