フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。
そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)
柄谷行人はここからさらに世界の構造のボロメオの環を思考している(柄谷自身による直接の言及はないが、カント的なボロメオの環がベースになっていることは明らかである)。
これは三界+サントームΣ(三界の留め金)の考え方であり、つまりはこうなる。
ーーこの「世界共和国」(アソシエーション)が、柄谷にとってのカントの超越論的統覚Xに相当する。世界共和国とは、カントの統整理念だけではなく、アソシエーションとあるようにマルクス起源でもある。
一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
この考え方は最近はより詳細になっており、たとえば次の図表が示されている(「交換様式論入門」2017, PDF)
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柄谷行人の「世界共和国=アソシエーション」あるいは最近の「帝国の原理」をめぐる思考の重要な手掛かりは、『世界史の構造』などで示された次の図にある。
ーー父在‐不在の項は、わたくしがつけ加えた。歴史的には父在のときには、父に支えられた自由があり、不在のときは弱肉強食がある、という観点である。
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
中井久夫も同様なことを言っている。
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
この父在‐父不在とは、「三者関係的/二者関係的」だということである。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
もっともあくまで二者関係「的」であり、厳密な二者関係でないのはもちろんのことである。《想像的二者関係 dyade imaginaire の小さな他者 autreとの関係において、大きな大他者grand Autre が不在と考えるのは誤謬である。》(ラカン、E678、1960年)
ここでは、現象的には二者の関係であっても、目に見えない第三者すなわち社会(世間)が背景として厳存する場合は三者関係とする。したがって四者以上でも三者関係に含まれる。私のいう二者関係とは「文脈以前の二者関係」あるいは絶対的な二者関係と呼んでもよかろう。(同中井久夫)
中井久夫がしばしば強調する「文脈以前の二者関係」以後、三歳以降に獲得する「成人言語性」とは、ラカン派的には父である。《言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père 》(ミレール、1997)。この父の名はまた父の機能と呼ばれる。
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)
柄谷行人に戻れば、彼は「帝国の原理」についてこう言っている。
帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)
帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)
柄谷行人は、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)がなければ、人間には「コモンズ comunis」が得られない、ということを言っているのである(日本的文脈では「象徴天皇制」の本来の十全な機能)。
これはラカンが次のように言っているのと等価である。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
ラカン的には、学園紛争のおりに既に《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)があったのである。柄谷行人においては、1989年までは「マルクスの父」がとりあえずはあった、という観点である。
ところで、"Pornography no longer has any charm"という表題をもつジジェクへのインタヴュー記事(19.01.2018)に次のような発言がある。
私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。
半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018)
2018年1月の半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年́8月のインタヴュー記事に出会った。
マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと溶解する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。…multitudo 概念を断固として使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、multitudoとcomunis 概念を詳述するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri, Interview – August 18, 2018)
あのネグリがついにこういうようになっているのである。日本におけるほとんどの政治学者たちーーあるいは批評家や左翼ラカン派もふくめーーが、いまだネグリのマルチチュード的思考に囚われたままで柄谷を蔑ろにしているのはまったく馬鹿げている、とわたくしは思う。
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もっとも「世界資本主義の歴史的段階」の図をシニカルに眺める方法もある。再掲しよう。
なんと60年周期説なのである。もしこの立場をとれば、どうあがいても1990年から2050年までは、弱肉強食の時代が続くということになる。
1870年から1930年までの弱肉強食時代には、たしかにロシア革命があった。だがそれ結局、一国社会主義革命に終わった。柄谷行人が世界共和国という世界同時革命でなければならない、と言っているのはロシア革命ではダメだということである。
とはいえ、世界史の構造の60年周期説は、そのとき覆されることになり、柄谷理論の一端は崩れる、と言えるのではなかろうか?
他方、柄谷の構造論を厳密に受け入れるならば、人は2050年までは弱肉強食の時代に耐えねばならない、ということになる。
構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。(⋯⋯)
私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008, PDF 私訳)
おそらく構造を覆すためには神の力が必要なのだろう。
日本だけの構造を覆すのは簡単である。東京大地震という神の力があればそれですむ。あるいは足音を立てて訪れつつある「財政破綻」という意図せざる「擬似的神の力」でもよろしい。
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※付記
柄谷の示す「交換と力の諸関係の図式」は、他の図式とともに読まなければならない。再掲すれば次の図である。
すべての話す存在の原去勢は、対象aによって-φと徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
(- φ) 、(- J)は、穴Ⱥ(原トラウマ)に相当する。
対象aは、大他者自体の水準において示される穴Ⱥである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
この穴は、柄谷=マルクス的文脈では、「無根拠であり非対称的な交換関係(コミュニケーション関係)」のことである。
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)
すなわち、
穴 trou は、非関係 non-rapport によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)
さらにつけ加えれば、最近の柄谷行人は「自動的フェティッシュ」に相当するものを、「絶対的フェティッシュ」と呼んでいる。
・資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。
・株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)
マルクスから次の叙述のみを簡潔に引用しておこう。
貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)