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2019年10月23日水曜日

マルクス的な「構造的作業仮説」のすすめ

二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。

これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)

………

『凡庸な芸術家の肖像』で、蓮實は実にたくみにマルクス的言説について記している。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

たとえば真の構造的マルキスト柄谷行人が『世界史の構造』で提示した「世界資本主義の歴史的段階」は一つの虚構にすぎない。だがこのモデルはとても多くのことを考えさせてくれる。経験論者ばかりが跳梁跋扈している日本ではいっそうのこと(総体的な視点を確保するために)こよなく貴重な構造的作業仮設でありうる。





たとえばここからラカン的用語を使って次のように示してみよう。



柄谷モデルによれば、1990年以降の「父なき時代」としての新自由主義時代とは、父が存在していた時代の自由主義時代とは異なり、帝国主義的(弱肉強食的)時代なのである。

ここでの父とは権威のことである。

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

これはなにも世界史の構造だけへの示唆ではない。たとえば日本共同体の現在の構造に思いを馳せることも当然できる。一神教ではない日本はもともと権威の機能が弱い社会であるとしばしば指摘されてきたが、それにしても1990年を経てのこの今の日本である。なぜこんなに収拾のつかないヒドイ社会になってしまったのか。権威なるもののほとんど完膚なきまでの消滅がその主因ではなかろうか?ーーこういった問いを出してもよいはずである。

個を越えた良性の権威へのつながりの感覚(……)、これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


柄谷行人によるもう一つの重要な構造的モデルはボロメオの輪である。

フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
ネーションおいて現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されている。…それは、資本主義経済(感性)と国家(理性)がネーション(想像力)によって結ばれているということである。これらがいわばボロメオの環をなす。(柄谷行人『世界史の構造』2010年)

次の図のアソシエーションXの箇所については、柄谷が直接しめしているわけではないが、ラカンのボロメオの環に依拠すれば、かならずこうなる。




それぞれの項は次の意味合いをもっている。



Dについては柄谷行人は別に「帝国の原理」とも示した。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷行人のボロメオの環に戻れば、その基本的読み方は次のとおりである。

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ラカンのボロメオの環は、文化共同体分析に援用すればこう示せるが、これは柄谷の言っていることと相同的である。




この図について、まずジジェクから引用しよう。

イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。. (Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)

ようするにイデオロギーの箇所は「民主主義」、ヘゲモニーの箇所は「政治」と代入してもよい。

そしてヘゲモニーの項に主人の言説、エコノミーの項に資本の言説と付け加えたのは次の意味である。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。…

資本家の言説…、それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)

ラカンはここで(学園紛争後)、主人の言説から資本の言説への移行を指摘している。主人の言説の崩壊とは、別の言い方なら、《父の蒸発 évaporation du père》(「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)であり、あるいは《エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971年)である。

主人の言説から資本の言説への移行とは、柄谷行人語彙では、国家から資本への移行である。

もうひとつ、柄谷行人のX(アソシエーション、世界共和国、帝国の原理)とは、ラカンのΣであり(このサントームΣには二種類の意味がある[参照])、ようするにかつての支配的父の名ではなく、支配の原理(三界の結び目)としての父の機能である。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

柄谷やラカン的視野においては、現在、世界において、あるいは日本においてはことさらこの「支配の原理としての父の機能」なのである。

柄谷行人はこう言っている。

私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

土台が変わったのである。土台が抑圧的家父長制(国家、主人)であった時代のみ脱構築(ディコンストラクション)はその機能を果たした。ところが現在、脱構築は資本の論理と相同的な支配的イデオロギーである。

柄谷とラカンの言っていることは、時期的には柄谷は冷戦終了以後、ラカンは学園紛争終了後との相違はあるが、構造的には同一性があり、次のように図示しうる。





かりに下部構造という言葉を活かして、ボロメオの環を使って図示すればこうなる。




いま三つの環を色を塗って示したが、これは、①資本は国家を支配しようとする、②国家は国民を支配しようとする。③国民は資本を支配しようとするということであり、これがボロメオの環の基本的読み方である。

これは、柄谷行人の記述と実に近似している。

ネーションおいて現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されている。…それは、資本主義経済(感性)と国家(理性)がネーション(想像力)によって結ばれているということである。これらがいわばボロメオの環をなす。(柄谷行人『世界史の構造』2010年)

くりかえせば下部構造が国家から資本へと移行があったのである。だが現在に至っても二周遅れの哲学者連中が、マガオで脱構築やら脱領土化やらを体制反覆の思考として顕揚する気風が残っている。そんなものは《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁する》ものでしかないのに。

これがジジェク が次のように言っている意味である。

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)

以上、柄谷的な、あるいはラカン派的な構造的作業仮説なしで、現在の新自由主義時代における共同体や国家分析に耽るのは、ほとんど徒労であり、ほとんど無意味でる、と言いたい。

学者たちにもそれぞれ得意分野があるだろうが、わたくしに言わせれば、オピニオンリーダーとして発言したいらしい政治学者や社会学者(あるいは文学者)はあまりにも経済的知に疎すぎ、構造的思考が欠けている。




広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

ここで身近な話の事例を出そう。巷間の心優しき評論家諸君は、弱者擁護にひたすら終始するだけではなく、なによりもまず次の構造を念頭に置いて思考することが不可欠である。






たとえば、あれら心優しき評論家諸君はじつは最も残酷な「未来の他者」に対する財性的幼児虐待していないかどうかを一瞬でもいいから疑ってみることである。

「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とは、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 日本でも一部で流通しているが、現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

つまり「財政的幼児虐待」の内実は次のような意味である。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ『国家債務危機』2011年 )
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、いろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

シェイクスピア曰く、

邪な心を抱いて正しい行為
そして正しい心を抱いて邪な行為

wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act

ーーシェイクスピア『終わりよければすべてよし』

ここでの話に言い換えれば、共感の共同体にどっぷり浸かった、あれらきわめて善良で誠実な評論家やら文学者やらの諸君は、「短期的には弱者擁護という正しい心を抱いて、長期的には未来の他者虐待という最悪の行為をしている」--ひょっとしてこういった振る舞いをしているのではないか? なにも財政問題に限らず、類似した現象はじつは誰にでもある話である。

マルクスは言っている、「彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es」(『資本論』vol I: 88)



※付記

新自由主義という勝ち組・負け組を無意識的に生み出すシステム
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になる瞬間」(マルクス)である。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006年)




2019年3月25日月曜日

去勢による死の欲動

言語を使用するたびに、人はみな去勢される」に引き続くが、ラカンはこう言っている。

我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「一連の諸シニフィアン la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。

S1 はそこに介入する。それは「特定な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet 」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。⋯⋯⋯

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ここに「喪失として定義される何か=対象a」とあるが、これが象徴的去勢である。そして言語によって「分割された主体$」とは、事実上、「去勢された主体」である。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果(インパクト)によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)

《「話す存在 l'être parlant」における固有の反復》ともあったが、これも去勢による反復強迫のことである。

すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)


対象aとは、なによりもまず去勢を意味する。

対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

そしてS1というシニフィアンは何か?ーーシニフィアンとは基本的にはフロイトの語表象 Wortvorstellungのことである。ときにイメージ表象(事物表象 Sachvorstellung)も含まれるがーー、この語表象のひとつとしてのS1は何か?

主人のシニフィアンS1の最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Theory of the Four Discourses、1995)
「私」を徴示するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエなきシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

S1の最も代表的な一人称単数代名詞「私」を使って図示すれば、主体$と対象aーー対象aとは前回示したように「喪失と剰余享楽(喪失の穴埋め)」であるーーは次のようにして生まれる(主体$とは「欲望する主体 sujet désirant 」(S10)のことでもある)。





下段にはラカンの幻想の式が現われている。

ラカンの幻想の式 $ ◊ a にあらわれる $ / a とは、要素なき空虚の場/場なき過剰の要素のことである(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ラカンはこういった考え方をセミネール17前後で示したが、前年のセミネール16で、この論理とマルクスの価値形態論との相同性を語っている。ここではそれを、最も単純な形で図示しておこう。





この図の意味する第一は、他の商品と交換するから商品S1の価値が生まれるのであって、その逆ではないということである。それは、主体$においても同様。他のシニフィアン(他の表象)とコミュニケーションしなかったら、主体の価値はない。

以下の文には対象aは現れていないが、ラカンにおける主要テーゼである。

一つのシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]。(ラカン、E840, 1960年)
シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)


柄谷行人はこう言っている。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

ーーこれはマルクス起源でありながら、いかにもラカン的である。


もっともラカンの思考はこれだけではない。自閉症的反復強迫(参照:愛の三界)は、この言語による反復強迫に先立つ。

ラカンは既にセミネール11で、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている(「二つの欠如」は、後年のラカン用語においては「二つの穴」である)。

一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。これはラメラ神話の語りのなかで最も鮮明に現われている。

このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが、それはリビドー libidoである。  

これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)ものである。

対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。

乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)

《生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)もの》とあるが、この控除という言葉は、次の文とともに読むと、よりいっそう鮮明になる。

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)


セミネール11では二つの欠如とあるが、実際は、二つだけではない。大きくみても四つの去勢がある(参照:四種類の去勢)。

前回も引用したが、最晩年のラカンはこう言っている。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


この種々の去勢により、人はみな享楽回帰運動(喪われたモノは取り戻そうとする運動)があるのである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ラカンはこの反復強迫としての享楽回帰について、こう言っている。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

そして、フロイトにとって反復強迫とは元来、死の欲動であったことに注意しよう。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

ようするに去勢による反復強迫とは、去勢による死の欲動である。死の欲動とは、究極の融合(原エロス)の廻りの循環運動、あるいは引力と斥力(融合と分離)の運動ということである(参照)。あるいは去勢の廻りの循環運動と言ってもよい。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)




こう図示してみると、ここでの話題とは別のことをふと思いついてしまい、記述が長くなる悪癖がわたくしにはある・・・

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


・・・さて話を元に戻さねばならない。

外傷神経症者(トラウマ神経症者)は、身体の上への刻印(リビドー固着)と、心的装置に同化されない身体的残滓(リビドー固着の「エス=現実界」のなかへの居残り)により、反復強迫(死の欲動)を起こす。身体的残滓とは固着により去勢されたものという意味でもある。《去勢Kastration ⋯とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。》(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )

最後に付記的に記しておけば、この反復強迫=死の欲動は、フロイト解釈においては、ニーチェの永遠回帰である。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

ーーああ、いまだ先ほどの「母なる去勢」悪影響から逃れられない。《永遠回帰に対する最も深い異論は母である》(ニーチェ『この人を見よ』

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: 」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

・・・さてまた復活してなんとか最後まで辿りつかねばならぬ。とはいえ蚊居肢散人はちょっとした高所恐怖症なのであるが、その原因がようやく最近になって判然としてきたのは、ニーチェ、フロイト、ラカン三人組のおかげなのである。

・・・自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

だがブログ記事破壊欲動から立ち戻らねばならぬ・・・

マルクスの価値形態論自体、その究極においては、「資本の永遠回帰」である。これは、すでに柄谷行人によって「資本の欲動」と命名されているものの別の言い方にすぎない(参照)。

上に引用したジジェク2012の《ラカンの幻想の式 $ ◊ a にあらわれる $ / a とは、要素なき空虚の場/場なき過剰の要素である》における「要素なき空虚の場/場なき過剰の要素」とは、直接的には言及されていないが、マルクスの「資本の中身なき形態/自動的フェティッシュ 」と相同的である。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)


ーーなどという話は実はどうでもよい、というのがこの記事を書き進めるうちに知り得た成果である・・・

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。Comment faire pour écrire autrement que sur ce qu'on ne sait pas, ou ce qu'on sait mal? (ドゥルーズ 『差異と反復』「序」1968年)


2019年3月5日火曜日

モラリスト柄谷と浅田

知らないわけじゃないよ、柄谷行人や浅田彰がこう言っているのをね。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)

ーー「ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出した」とあるのは、ニーチェの「力への意志」から、ということだ。

ハイデガーが『力への意志』の617番をニーチェの核としたり、ドゥルーズが619番を核としたり、ミュラー=ラストが、あんなものニーチェ草稿編集者ガストの修正版だとしたりしているのだけれど(参照)、ま、それはこの際どうでもよろしい。

ここでは「禁止のない社会における「奴隷状態」」で引用した、ニーチェ自身によって上梓されている文のみを再掲しておこう。

たとえば偉大さにおける安らぎ、理想的な志操、高い単純さをギリシア人で驚嘆しつつ、「美しい魂」、「黄金中庸」、その他の完全性をギリシア人のうちから嗅ぎ出すということーーこうした「高い単純さ」から、結局のところドイツ的愚かしさから私を守ってくれたのは、私がおのれのうちにもっていた心理学者のおかげである。私は、ギリシア人の最も強い本能、力への意志を見てとり、私は彼らがこの欲動の飼い馴らされていない暴力に戦慄するのを見てとった、ーー私は、彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対してたがいに身の安全を護るための保護手段から生じたものであるのを見てとったのである。

In den Griechen »schöne Seelen«, »goldene Mitten« und andre Vollkommenheiten auszuwittern, etwa an ihnen die Ruhe in der Größe, die ideale Gesinnung, die hohe Einfalt bewundern - vor dieser »hohen Einfalt«, einer niaiserie allemande zu guter Letzt, war ich durch den Psychologen behütet, den ich in mir trug. Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』1889年)

ここには浅田のいう《力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる》とは異なったことが書かれている。すくなくともボクにはそう読める。

なにはともあれ、「力へ意志 Willen zur Macht」=「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」=「内部にある爆発物 inwendigen Explosivstoff 」に対する防衛が、ギリシア人の「あらゆる制度」の起源だとされている。

これはラカン的に言えば、こういうことだ。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

簡潔に言い直せばこうである。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

ここでミレールがいう「享楽」とは、「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」(参照)のことであり、ニーチェの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」と等置しうる。

欲動蠢動は刺激無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、セミネール10、1962)

で、柄谷と浅田の話に戻れば、柄谷行人は、2007年にも1996年の話と同じようなことを言っている。

超自我は「死の欲動」という概念の結果として考えられたのではない。逆に、欲動を自己規制するような自律的な超自我を説明するためにこそ、フロイトは「死の欲動」を想定したのだ。それによって、攻撃性は「死の欲動」の一部であると考えられる。そして、攻撃性を抑えるのは(内に向けられた)攻撃性である。そうだとすれば、攻撃性を抑制することは不可能ではない。そして、それが文化=文明化にほかならない。一言でいえば、文化=文明化とは、攻撃性を自己抑制するような社会的装置である。(柄谷行人「超自我と文化=文明化の問題」ーー『フロイト全集』 第4巻 月報2007.03.08)

これはちょっと受けいれ難いのだな、この死の欲動の捉え方は。フロイトの死の欲動概念は、第一次世界大戦参戦兵士たちの「外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen」の続出に主要な淵源があるとする中井久夫のほうが正当的だな。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


浅田彰も2005年にもふたたび1996年と同じ様なことを言っている。

キリスト教以前の古代ギリシア・ローマには、性の問題に関しても、そういう厳格な法はほとんどない。法のないところで、自分が好きなことをして、しかし行き過ぎると自分にとってもおぞましい結果になってしまうから、自ずと程を得たところに行き着く、それが自律だと言っているわけです。法に抑えられていた力が暴発するのではない、力が自由に発揮されるところで自分自身を矯めるのだ、と。(浅田彰「不安から自律へ」2005田中康夫×浅田彰×宮台真司:「『不安』の時代から『自律』の時代へ」)

ーーより長い引用は、→「参照


柄谷や浅田はフロイトとニーチェの次の文に依拠しながらも、たぶんああ言っているわけだが。

われわれの攻撃欲 Aggressionslustを無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。…われわれの攻撃性を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃性をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。Die Aggression wird introjiziert, verinnerlicht, eigentlich aber dorthin zurückgeschickt, woher sie gekommen ist, also gegen das eigene Ich gewendet. (フロイト『文化への不満』第7章、1930年)
外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。後に人間の「魂」と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への捌け口が堰き止められてしまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。……粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。外部に敵や抵抗がなくなったために慣習の狭苦しさと単調さのうちへ押し込められた人間は、耐え切れなくてわれとわが身を引き裂き、追い詰め、食い齧り、掻き立て、虐げた。自分の檻の格子に身を打つけて傷を負うこの動物(それを諸君は「飼い馴ら」そうとしているのだ)。この窮乏した者、荒野への郷愁に憔悴した者(彼らは自ら冒険を、拷問所を、不安で危険な蛮地を創り出さずにはいられなかった)、――この阿呆が、憧憬に悴れ絶望に陥ったこの囚人が「良心の疚しさ」の発案者となったのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文 木場深定訳)

それ以外に、柄谷行人は「超自我と文化=文明化の問題」(2007)に引用があるようにフロイトの「ヒトはなぜ戦争をするのか」の次の文にも依拠がある。

・戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。少なくとも平和主義者なら、拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはずなのです。戦争への拒絶、それは平和主義者の体と心の奥底にあるものが激しい形で外にあらわれたものなのです。私はこう考えます。このような意識のあり方が戦争の残虐さそのものに劣らぬほど、戦争への嫌悪感を生み出す原因となっている、と。

・どのような道を経て、あるいはどのような回り道を経て、戦争が消えていくのか。それを推測することはできません。しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!(フロイト「ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡」浅見昇吾訳、1933年)

でもこれは、フロイトはモラリストとして振る舞っただけだよ、この書簡は1933年に出版されているけれど、アインシュタインとの対話自体は前年の1932年になされている。

フロイトは翌年の1933年(77歳)に(自らのモラリスト性を恥じて?)次のように言っている。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとってなんと悲しい暴露だろうか![traurige Eröffnung für den Ethiker! ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

そして「自己破壊欲動(マゾヒズム)は死の欲動である」としている。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

なぜエロス欲動は死の欲動なのか」にて次の図を示したところだけれど。





これは1924年のマゾヒズム論の原マゾヒズム≒原サディズムという表現を活かして、あえて二次サディズムという語を想定して図示したものだ。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

上の図でよいのだが、上に引用した1933年の発言にもとづけば、もっと簡潔に図示できる。すなわち次の図がフロイトの「死の欲動」である。




※「なぜエロス欲動は死の欲動なのか」ではラカンの発言を混在させてマゾヒズムについて記述したが、フロイトの記述にほぼ焦点を絞った詳細は、「エロス欲動という死の欲動」にまとめてある。


上に示したように、浅田はもちろんのこと、柄谷が《攻撃性を抑えるのは(内に向けられた)攻撃性である。そうだとすれば、攻撃性を抑制することは不可能ではない。そして、それが文化=文明化にほかならない》等と言っているのは、たんなる「二次マゾヒズム」にすぎない。誤謬とはいわないが、原マゾヒズムが十分に視野に入っていないように思える。

自己破壊欲動として原初にあるマゾヒズムへの思考の欠如は、上にも引用した浅田彰の次の二文が端的に示している。

・力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる(浅田彰、1996)

・力が自由に発揮されるところで自分自身を矯める(浅田彰、2005)

これはフーコーの《自己による自己の支配》にも依拠してもこう言っている筈(参照:エンクラティア enkrateia とソフロシューネ sophrosyne)。




ようするに、最晩年のフロイトの思考においては、最初に自己破壊欲動ありき、であり、それが外部に投射されたものが他者破壊欲動であり、さらにその他者破壊欲動が内部に退行して原初の自己破壊欲動に合流する。それがふたたび外部に向かわなければ、人は純粋な自己破壊に向かう。

以下のジジェク文は強度の「事故的トラウマ」による自己破壊だが、人が皆もっている幼児期の「構造的トラウマ」においても、強度の差はあれメカニズムは一緒。身体の上への刻印としてのトラウマは外部に投射されなければ内に籠って自己破壊的に作用する。

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって何度も引き起こされる事実をだ。生き残ったことへの彼らの内奥の反応が、いかに深刻な分裂によって刻印されているか。

意識的には彼らは十全に気づいている、自らの生存は意味のない偶然の結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない。責めを負うべき加害者はたただナチの拷問者たちのみであると。

だが同時に、彼らは「非合理的な」罪の意識にとり憑かれている。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。

よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生存者の多くを自殺に追いやるのだ。これが示しているのは、最も純粋な超自我の審級である。この猥雑な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

「最も純粋な超自我の審級」とジジェクが言っているのは、実質上、リビドー固着である。ラカン派において、超自我には「母なる超自我 S(Ⱥ)」と「父なる超自我 S1あるいは Φ」があり、S(Ⱥ)とはリビドー固着マテームでもある。





ようするに次の語彙群はすべて代置しうる。






ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』で《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 》(参照)とか《魔女のメタサイコロジー Hexe Metapsychologie 》とか言っているのは、このリビドー固着に由来する原破壊欲動という奔馬の飼い馴らせなさを言っている。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第三章、1937年)

ま、言ってしまえば、柄谷行人も浅田彰も死の欲動や力への意志に関して、ちょっと甘いんじゃないかな。最近そう思うようになってきたね。

力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

至高の欲動とは、フロイト・ラカンにとって自己破壊欲動である。

でもなぜ自己破壊欲動なんてものが原初的なものとして人にはあるんだろう?

さあてね、これを言い出すと、このマザコン野郎とか言われちまうからな→「最初に分離不安ありき

ま、ボクも確としたことを言うつもりはないけどさ、でも柄谷や浅田の言っていることを文字通り受けとる必要はケほどもないことは確かだよ。ボクは両者をそれなりに長年「敬愛」してきたけどさ。





2019年2月10日日曜日

父なき時代のために

◼️父なき時代
父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。

では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。

二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。

では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。

異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威silly authorityだけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」初出1995年『家族の深淵』所収)


◼️父なき時代の特徴
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
(現在)人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)


 以下、柄谷行人「世界史の構造」モデル。

ーー最も基礎的にはマルクスの「歴史は反復する」に基づいた60年周期説であり、下段はわたくしがつけ加えた。

私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008 私訳)




1990年以降の「父なき時代」とは、1970年から徐々に始まった「マルクスという父」の決定的な死の時代である。

そして1990年以降の新自由主義は、自由とは異なり、市場原理主義の時代である。

人々は自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。(柄谷行人『終焉をめぐって』所収、1990年)

1930年以降の「米国父」の時代とは、次の文脈のなかにある。

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』所収、1990年)

柄谷行人のモデルにそのままナイーヴに従えば、「父なき時代」が始まった1870年から59年後の1929年に世界の大恐慌が起こっている。したがって新しい「父なき時代」の開始1990年から約60年後の2050年前後に次の大恐慌が起こる。

不幸にも2050年には、わたくしはもはや生きていないなので、古井由吉予測が起こることを「ひそかに希望」している。

近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。(古井由吉「すばる」2015年9月号)


◼️母の法と父の機能

父なき時代とは母の法(母なる超自我)の時代である。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

母の法の時代とは、二者関係的な時代である(第三項の支えの消滅の時代)。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)
重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウVerhaeghe, P., Social bond and authority, 1999)


ーー母の法とは、だれもが気づいているだろう次元でいえば、前言語的法、距離のない狂宴の法である。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」)
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)

1990年前後から、柄谷行人、浅田彰は、フェミニズム運動の「家父長制打倒」スローガンが、一神教的欧米文脈とは異なり、日本においてはまったく的を外していることを暗に指摘しているのである。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年)



◼️母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)

父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる(……)。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、“母”である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。

宗教だけではない。ヒトの社会に「父」が参加したのは、始まりは子育ての助手としてであったというが、この本来の父の役割は、家族から社会、部族、国家へと転用された。この拡大は農耕社会に始まり現状に至っていると私は思う。父は狩人から始めて戦士となり航海者となり官僚となりサラリーマンとなった。そして国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う。父を家の外に誘い出すことによって、家庭の父の役割は薄くなった。狩猟には父は息子とともに参加したのであろうが、おそらく農耕社会以後の父の実態は核家族と大家族と社会の三つの世界に引き裂かれた存在である。「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである。それがほどなく「宗教」の意味になったのは周知のとおりである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収)


◼️父の原理の回復必要性
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)


◼️反マルチチュードの新しい時代へ
人間は「主人」(父)が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018)


◼️権威と自由
権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)
共和制なき王はない。そして王なき共和制はない。…daß kein König ohne Republik und keine Republik ohne König bestehn könne (ノヴァーリス『信仰と愛 Glauben und Liebe』1798年)

もっとも真の王(権威)となるのは、ひどく困難な仕事ではある。

あなた(王)が他者の夢の罠に嵌ったら、墓穴を掘るだろう。 Si vous êtes pris dans le rêve de l’autre; vous êtez foutus(ドゥルーズ『創造行為とは何か』1987)






2018年11月26日月曜日

柄谷行人の世界史の構造論とボロメオの環

柄谷行人には、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》というボロメオの環の捉え方があるのは、何度も示している(参照:「ニーチェのボロメオの環」)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)






柄谷行人はここからさらに世界の構造のボロメオの環を思考している(柄谷自身による直接の言及はないが、カント的なボロメオの環がベースになっていることは明らかである)。





これは三界+サントームΣ(三界の留め金)の考え方であり、つまりはこうなる。




ーーこの「世界共和国」(アソシエーション)が、柄谷にとってのカントの超越論的統覚Xに相当する。世界共和国とは、カントの統整理念だけではなく、アソシエーションとあるようにマルクス起源でもある。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

この考え方は最近はより詳細になっており、たとえば次の図表が示されている(「交換様式論入門」2017, PDF




⋯⋯⋯⋯

柄谷行人の「世界共和国=アソシエーション」あるいは最近の「帝国の原理」をめぐる思考の重要な手掛かりは、『世界史の構造』などで示された次の図にある。





ーー父在‐不在の項は、わたくしがつけ加えた。歴史的には父在のときには、父に支えられた自由があり、不在のときは弱肉強食がある、という観点である。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

中井久夫も同様なことを言っている。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

この父在‐父不在とは、「三者関係的/二者関係的」だということである。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

もっともあくまで二者関係「的」であり、厳密な二者関係でないのはもちろんのことである。《想像的二者関係 dyade imaginaire の小さな他者 autreとの関係において、大きな大他者grand Autre が不在と考えるのは誤謬である。》(ラカン、E678、1960年)

ここでは、現象的には二者の関係であっても、目に見えない第三者すなわち社会(世間)が背景として厳存する場合は三者関係とする。したがって四者以上でも三者関係に含まれる。私のいう二者関係とは「文脈以前の二者関係」あるいは絶対的な二者関係と呼んでもよかろう。(同中井久夫)

中井久夫がしばしば強調する「文脈以前の二者関係」以後、三歳以降に獲得する「成人言語性」とは、ラカン派的には父である。《言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père 》(ミレール、1997)。この父の名はまた父の機能と呼ばれる。

ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)


柄谷行人に戻れば、彼は「帝国の原理」についてこう言っている。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷行人は、「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」(父の機能)がなければ、人間には「コモンズ comunis」が得られない、ということを言っているのである(日本的文脈では「象徴天皇制」の本来の十全な機能)。

これはラカンが次のように言っているのと等価である。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

ラカン的には、学園紛争のおりに既に《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)があったのである。柄谷行人においては、1989年までは「マルクスの父」がとりあえずはあった、という観点である。

ところで、"Pornography no longer has any charm"という表題をもつジジェクへのインタヴュー記事(19.01.2018)に次のような発言がある。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018

2018年1月の半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年́8月のインタヴュー記事に出会った。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと溶解する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。…multitudo 概念を断固として使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、multitudoとcomunis 概念を詳述するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri, Interview – August 18, 2018)

あのネグリがついにこういうようになっているのである。日本におけるほとんどの政治学者たちーーあるいは批評家や左翼ラカン派もふくめーーが、いまだネグリのマルチチュード的思考に囚われたままで柄谷を蔑ろにしているのはまったく馬鹿げている、とわたくしは思う。

⋯⋯⋯⋯

もっとも「世界資本主義の歴史的段階」の図をシニカルに眺める方法もある。再掲しよう。




なんと60年周期説なのである。もしこの立場をとれば、どうあがいても1990年から2050年までは、弱肉強食の時代が続くということになる。

1870年から1930年までの弱肉強食時代には、たしかにロシア革命があった。だがそれ結局、一国社会主義革命に終わった。柄谷行人が世界共和国という世界同時革命でなければならない、と言っているのはロシア革命ではダメだということである。

とはいえ、世界史の構造の60年周期説は、そのとき覆されることになり、柄谷理論の一端は崩れる、と言えるのではなかろうか?

他方、柄谷の構造論を厳密に受け入れるならば、人は2050年までは弱肉強食の時代に耐えねばならない、ということになる。

構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。(⋯⋯)

私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008, PDF 私訳)

おそらく構造を覆すためには神の力が必要なのだろう。




日本だけの構造を覆すのは簡単である。東京大地震という神の力があればそれですむ。あるいは足音を立てて訪れつつある「財政破綻」という意図せざる「擬似的神の力」でもよろしい。

⋯⋯⋯⋯

※付記

柄谷の示す「交換と力の諸関係の図式」は、他の図式とともに読まなければならない。再掲すれば次の図である。





したがってマルクス的思考を厳密にボロメオの環で示せば、次のようになる、とわたくしは考えている。







ーーたとえば、岩井克人によってくりかえし強調される指摘として「貨幣=言語=法」がある。象徴界の場に貨幣が入るだろうことは、冒頭に示したラカンのボロメオの図において、象徴界=言語であるのと同様である、《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)。この観点をとれば、商品と市場はそれぞれ当然、想像界と現実界に置かれる。

ボロメオの輪の中心は、通常「a」と記されるが、「-φ」としたのは次の論拠による。

すべての話す存在の原去勢は、対象aによって-φと徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

(- φ) 、(- J)は、穴Ⱥ(原トラウマ)に相当する。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴Ⱥである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

この穴は、柄谷=マルクス的文脈では、「無根拠であり非対称的な交換関係(コミュニケーション関係)」のことである。

マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)

すなわち、

穴 trou は、非関係 non-rapport によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)


さらにつけ加えれば、最近の柄谷行人は「自動的フェティッシュ」に相当するものを、「絶対的フェティッシュ」と呼んでいる。

・資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。

・株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

マルクスから次の叙述のみを簡潔に引用しておこう。

貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)





2017年4月19日水曜日

フロイトの「資本」論と「快の獲得」

まずフロイトの「資本」論から。

夢が必要とした欲動の力 Triebkraft は、ある願望 Wunsche によって提供されねばならなかった。夢の欲動の力として振舞う願望 Wunsch als Triebkraft des Traumes、それを捕えることが、心配の関心事だった。

この状況は次の喩えで説明しうる。すなわち日中思考は、夢にとって企業家 Unternehmers の役割を大いに演じうる。しかし企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない ohne Capital nichts machen。彼は、出資 Aufwand してくれる資本家 Capitalisten が必要である。夢にとっての心的出資 psychischenAufwand を提供する資本家 Capitalist とは、その日中思考がどんなものであろうと、例外なしに必ず、無意識からの願望 Wunsch aus dem ünbewussten である。

資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである。日中作業によって、ある無意識的な願望が刺激を受ける。そしてこの願望が夢を作り出す。… (フロイト『夢解釈』第七章)


次にマルクスの『資本論』より。

諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』)

「自動的主体 automatisches Subjekt 」とは、ラカンの「無頭の主体 sujet acéphale」のことである。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。

la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)

そしてマルクスの「剰余価値」とは「症状」のことである。

…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)

そして、

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

である。

フロイトの「快の獲得」概念は、1905年の『機知』論文に初めて出現するが、ここでは最晩年の叙述を抜き出す。

まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

《栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたもの》とあるが、これをラカンは《享楽欠如の拡張生産》としている。

この宝貝、つまり剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

なぜ享楽欠如というのか。

フロイト曰く「栄養とは無関係」だから。
マルクス的に言えば、実際の使用価値を断念して自己目的(自己増殖)となるから。

…………

フロイトの「資本」論に戻る。「夢が必要とした欲動の力 Triebkraft」 とは「資本」とあった。そして《企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない 》ともあった。

フロイトの「資本」をめぐる叙述と「快の獲得」概念を、ラカンの「資本の言説」にあてはめれば、次のようになる。



さらにまた《資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである》という記述を生かし、快の獲得=剰余価値、プランとは商品の生産・売買とすれば、次のように図示できる。





資本の言説は主人の言説の突然変異であり(参照:四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説))、ラカンがまだ資本の言説概念を提出していない時期に、主人の言説について次のように言っている。

主人の言説は主体の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで。(S17、18 Février 1970)

これは企業家$と資本S1の合体である[ $ ≡ S1 ]。

ラカンはこれまた「資本の言説」とは別の文脈においてだが、《真理のなかでの主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité》において、 《それ自体、等価 égalité à soi-même》となることを、主人の言説の特徴としている。

Il en est tout autre chose de ce qui se trouve à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même, de cette « je-cratie » dont je parlais une fois, et qui est, semble-t-il, l'essence de toute affirmation dans la culture qui a vu fleurir entre toutes ce discours du Maître. (Lacan, S17, 11 Février 1970 )

上にあらわした図は、真理のポジションにおいて、「動作主 agent のポジションにある企業家$」と「真理 verite のポジションにある資本S1」が合体したことを示したのである。




こうしてマルクスのG-W-G'(M-C-M' )、すなわち「貨幣-商品-貨幣+剰余価値」は、フロイトの資本論のなかにもあることが形式的に理解できる。

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious, 2015)

…………

もちろん上の叙述自体は、柄谷行人がすでに『トランスクリティーク』で明晰に言っていることでもある。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ーーフロイトの無意識論も、『マゾヒズムの経済的問題』を想い起すまでもなく、つねに「経済的なもの」である。その経済的=交換的なもののことを、ラカンは「言説」と呼ぶ。ラカンにとってのその意味は、《社会的つながりの機能 fonction de lien social》(1972)である。

まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本家の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的絆を指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf)

このPierre Brunoの考え方は、岩井克人の資本の主義/資本の論理の区別とともに読むといっそう味わい深い(参照:「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行)。

ようするに資本の生産様式が移行すれば、人間間の社会的つながり方は変わるのである。これをラカン派では主に神経症から倒錯への移行(主人の言説から資本の言説への移行)とする。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)

人間は誰もがもともと倒錯的であるにしろーー《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(Lacan, S24, 1977)ーー、ある時期からの社会的つながりは、エディプス(主人)のタガが外れて、前エディプス的な裸の倒錯に近いものになっている、という考え方である。

資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

 サモ・トムシックがこの‟The Capitalist Unconscious” 以降に書いた小論では、さらに次のように言っている。

…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さDas Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2015,PDF

さて、これらの文脈のなかで、柄谷行人の『トランスクリティーク』におけるマルクスの価値形態論、あるいはフェティシュをめぐる記述を読んでみると、資本の論理(資本の欲動)がいかに倒錯的(フェティシュ的)であるのかがあらためてよく理解できる。

マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」 ――相対的価値形態と等価形態 ――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなく、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動 ――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にはそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
……財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G’( G+ ⊿G )を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。だからここでいう商品のフェティシズムは消費社会における商品のフェティシズム ―たとえば人を店のショーウィンドウに釘付けにするような ―と混同されてはならない。むしろ、それは消費するかわりに、いつでもそうできるという「権利」を持とうとする欲動なのであり、それが一商品(金)を崇高なものとするのである。

私がここで焦点を当てたいのは、資本の自己増殖がいかに可能か( ……)ではなく、なぜ資本主義の運動がはてしなく( endlessly)続かざるをえないか、という問いである。実は、それは end-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのであるちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」 ――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される ――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(『トランスクリティーク』)

この柄谷行人の文は意図せずに、ラカンの次の言明の解説になっている。

欲望の搾取、これが資本の言説の偉大な発明である L’exploitation du désir, c’est la grande invention du discours capitaliste(ラカン、Excursus, 1972)

柄谷行人は最近の英論文でもこう言っている。

資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

剰余価値というフェティシズムは、形態が核心である。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

つまり、もの(対象)ではなく、形態がマルクスのフェティシズムの核心である。

株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

この「絶対フェティシュ」(絶対的フェティシュ)は、絶対的剰余価値の「絶対」とは全く意味が異なる。

では絶対フェティシュとは何か?

われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)

逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)

次のジジェク文の、外密 Extimitéとしての対象a は、柄谷のいう「絶対フェティッシュ」のことである。

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

以下の文の「対象a=剰余価値」に「フェティシュ」を代入して読んでおこう。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

これでマルクスの二種類のフェティシュが理解できるだろう。すなわち、形態 Form そのもののフェティシュ/物象化されたフェティシュ(たとえば黄金物神 Geldfetisch)が。




2017年4月3日月曜日

資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式

ラカンの「言説」概念は、フーコーのそれとは異なり、「社会的紐帯 lien social」にかかわる。「社会的紐帯」、すなわち「社会的つながり」であり、言語活動とはかならずしも一致しない。

四つの言説は、主体が四つの異なった社会的紐帯の形態を練り上げるための、四つの異なった手段の見取り図である。その社会的紐帯の形態とは、享楽の全的獲得の不能性にかかわる。(Paul Verhaeghe, 2004, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

つまり「言説」には、場合によっては、言葉なき言説(「パロールなき言説 un discours sans parole」(ラカン、S18)もありうる(ようするに主体が他者とかかわる仕方における形式的構造が核心である)。

だがこれらの社会的紐帯(社会的つながり)だけではなく、「生産様式」として「言説」を捉える観点もある。

まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的紐帯を指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf)

「言説」を「生産様式」として捉えれば、フロイトの「文化の中の居心地の悪さ」とは「資本主義の中の居心地の悪さ」と捉える観点も出現する。

…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さ Das Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2016, pdf)

とはいえ「資本主義」にも種々のタイプがある。ここで、「「父/父不在」の交代の世界史」にて掲げた柄谷行人の図式を再掲しよう。



柄谷行人のこの図式では、商人資本→産業資本→金融資本→国家独占資本→多国籍資本の推移があったことになる。

ここから、それぞれの資本様式、つまり「生産様式=言説」によって、異なった社会の病理(参照:「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」)がある、という考え方も生まれうる。

諸個人は社会が彼らに課す理想的イメージに基づいて行動するよう期待される。そして彼らの不成功、いや成功さえも彼らを病気にする。

これは、もちろんフロイトが『文化の中の居心地の悪さ』において提案した古典的考え方のリバイバルである。

…フロイトは、社会と個人とのあいだには、精神的緊張の領域があると想定した。事実、個人の欲望は社会によって拘束されなければならない。問いは、精神的緊張の領域が取りうる異なった形態についてである。人は想定する必要がある。異なった社会構造は、アイデンティティ創造の異なった過程と異なったメンタルディスオーダーをもたらすことを。(ポール・バーハウ 2014, identity and angst: on civilisation's new discontent、pdf)

…………

ここでラカン自身による「資本の言説」をめぐる発言を掲げる。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)


資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

(「愛の問題 les choses de l'amour」とあるが、ラカンの愛の定義(のひとつ)は、《愛とは自分のもっていないものを与えることである l'amour c'est de donner ce qu'on n'a pas》(S8)―― その意味するところは、「愛するということは、あなたの欠如(去勢)を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」(ミレール)ということである。)

ラカンは、1968年の学園紛争にて、《父の溶解霧散 évaporation du père》 が顕著になったという立場をとっている(これが「去勢の排除」にかかわる)。すなわち「権威の死」である。そしてその後、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」が決定打としてある。柄谷行人のいう1990年以降の「多国籍資本」の時代とは、実際は1970年頃から徐々に始まっていたはずである(たとえば1971年のドル金兌換制停止)

こうして「父なき時代」が柄谷行人の図式にあわせるなら1990年から顕著になるが、実質上は、1970年あたりから「父なき時代」は始まっている(ここではニーチェの「神の死」やフーコーの「人間の死」は考慮に入れないでおく)。

少し前柄谷の図式にあわせて提示した次の図は、フロイトが『文化の中の居心地の悪さ』で言う「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 」の観点からは、1970年の区切りをいれるべきだったかもしれない。


中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ここで中井久夫が言う「超自我」とは、ラカンの主人S1である。

上にみたように、ラカンは1972年に主人の言説が資本の言説の代替を指摘しているが、この特徴は「去勢の排除」ともしており、つまり「精神病的」な時代の始まりを示唆している。だが、資本の言説をめぐる現代ラカン派の捉え方は、排除ではなく否認にかかわる「倒錯」の時代とするのが主流である。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)
資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

ラカンの去勢とは、「象徴的去勢」のことであり、その去勢とは、言語を使用することによって、自らの身体の享楽(具体的な生の世界のなかの根)と切り離されるということである。
人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化 articulation signifiante 以外のどの場からも生じない。 (Lacan,S17, 18 Mars 1970)

他方、資本の言説の時代の「倒錯」(去勢の否認)のひとつは、完璧なコミュニケーション(交換)が可能だと錯覚することだろう。 欲望は象徴的去勢に基づくが、欲望は要求と誤認され、要求が満たされればよしとする態度である(消費至上主義)。

個人の精神病理としての倒錯については種々の捉え方があるが(参照:倒錯の三つの特徴)、文化共同体病理学においては、マルクスの価値形態論(商品あるいは貨幣フェティシュ分析(M-C-M' ))が倒錯を捉える上の要となる(柄谷行人による2016年の英語論文、‟Capital as Spirit Kojin Karatani”pdf も「フェティシュ」が主題である)。

「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。

剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

最近のジジェクは、このまだ若い Samo Tomšič の論に強い刺激を受けているようにみえる。

リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。(ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

ラカンは倒錯を、裏返しになった幻想の式$ ◊ a として定義している。すなわち倒錯の定式は、a ◊ $ である。これは、資本の言説の a → $ が示している。





ラカンの対象aには両義性がある。《対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚をあらわす》(ジジェク、2016,pdf)。もちろん資本の言説の a は、幻想的囮/スクリーンである。主人の言説に代表される四つの言説の原動因(真理)の項が、資本の言説では消滅した。




だが資本の言説において、原動因(真理)に近似したものが、この「幻想的囮/スクリーン(a)」=フェティシュであるようにみえる。

ラカンには《le petit marché du Maître 主人の小さな市場》(S17)という表現がある。これを援用して、次のように図示しうる。






この図はもちろん種々の変奏が可能であり、巷間には「観光客」の思想家がいるが、詳しいことはいざ知らず、あれは資本の言説の領野にあるように見える。





他方、従来の「思想家」とは形式的には次のような図で示すことができる。





わたくしは『観光客の哲学』なるものを読んでいないので、なんらかの評価の良し悪しを言い募るつもりはない。ただツイッター上の振舞いにおいては、レスポンス・囮としての対象a・フェティシュに過剰に依存しているように見えるだけである。

本書でぼくが言おうとしているのは、観光客とは小さな人類学者であるべきだという提言として要約できるのかもしれない。(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』)

いずれにせよ肝腎なのは、われわれ誰もが、現在「資本の言説」の時代に生きており、旧来の主人の言説の時代に人格形成期をおえた人びとも、多寡の差はあれフェティシュ的傾向をもつようになっている、ということである。そこから逃れる方策を、ラカンは漠然としか言っていない。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本の言説 discours capitaliste からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョン、1973年)

かつまた基本的な意味での「フェティシュ」という用語に誤解がないようにこう付け加えておこう。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S10)
倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。

La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER

言語自体がフェティシュという観点さえある。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリスティヴァ1980,J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

こういう理解をしてしまえば、岩井克人による「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」における「言語、法、貨幣」とはすべてフェティシュとさえ置けるわけである。すなわち「人間の真のパートナーはフェティシュである」、と。

交換価値とは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。(マルクス『経済学批判』)

ーーコミュニケーションとは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それはフェティシュにおおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。

この解釈に居直ってしまえば、観光客思想家を批判することが至難の技となる(とはいえ、資本の言説にまぐわっている「思想家」たちは、ラカンの原動因(あるいは穴Ⱥ)の定義のひとつとしての《書かれぬことを止めぬもの C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire》に直面する姿勢は、どこかに行ってしまっている気配が濃厚であるには相違ない)。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここまでの文脈での共同体病理学における「覆われなければならない無」とは、「社会的なもの」である。マルクスの 「社会的なもの」とは 《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷『マルクスその可能性の中心』1978年)であり、ラカンの非全体 pas-tout(穴=Ⱥ)と等価である。

…………

ところで岩井克人は1990年に、じつに示唆溢れることを言っている。この岩井克人の見解に則れば、ラカンの主人の言説から資本の言説への移行とは、「資本の主義」の言説から「資本の論理」への言説の移行と相同的である。

◆『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より。

【ふたつの資本主義】 
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。

【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。

【資本の論理=差異性の論理】 
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

…………

岩井克人による資本の論理(資本の欲動)の定義を掲げる。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)

これこそラカンのいう資本の言説ーー《ルーレットように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。/自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う》ーーである。

「資本の主義」の時代、「イデオロギーとしての資本主義」の時代、「主人の言説」(主人の生産様式)の時代とは、この「資本の論理」(資本の欲動)をなんらかの形で抑圧していた( 《オブラートに包んで》いた:浅田彰)時代であるだろう。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)


やや異なった文脈で語っているドゥルーズ&ガタリの叙述を抜き出せば、資本の論理とは、エディプス(主人)の歯止めがない「器官なき身体」・「死の欲動」のことである。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の欲動、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

すなわち、《死の欲動の馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes 》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』)がない裸の資本主義である。この飼い馴らしを「拘束」とも呼び、この拘束がなければ《 市場原理主義がむきだしの素顔を見せ》る(中井久夫)。

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

※参照:ラカンの「言説」理論の基本的な理解のために→「基本版:「四つの言説 quatre discours」