我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「一連の諸シニフィアン la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。
S1 はそこに介入する。それは「特定な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet 」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。⋯⋯⋯
S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。
我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)
ここに「喪失として定義される何か=対象a」とあるが、これが象徴的去勢である。そして言語によって「分割された主体$」とは、事実上、「去勢された主体」である。
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique
・去勢はシニフィアンの効果(インパクト)によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)
《「話す存在 l'être parlant」における固有の反復》ともあったが、これも去勢による反復強迫のことである。
すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)
対象aとは、なによりもまず去勢を意味する。
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
主人のシニフィアンS1の最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Theory of the Four Discourses、1995)
「私」を徴示するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエなきシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)
S1の最も代表的な一人称単数代名詞「私」を使って図示すれば、主体$と対象aーー対象aとは前回示したように「喪失と剰余享楽(喪失の穴埋め)」であるーーは次のようにして生まれる(主体$とは「欲望する主体 sujet désirant 」(S10)のことでもある)。
下段にはラカンの幻想の式が現われている。
ラカンの幻想の式 $ ◊ a にあらわれる $ / a とは、要素なき空虚の場/場なき過剰の要素のことである(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
この図の意味する第一は、他の商品と交換するから商品S1の価値が生まれるのであって、その逆ではないということである。それは、主体$においても同様。他のシニフィアン(他の表象)とコミュニケーションしなかったら、主体の価値はない。
一つのシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]。(ラカン、E840, 1960年)
シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…
シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)
柄谷行人はこう言っている。
広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
ーーこれはマルクス起源でありながら、いかにもラカン的である。
もっともラカンの思考はこれだけではない。自閉症的反復強迫(参照:愛の三界)は、この言語による反復強迫に先立つ。
一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。
この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。これはラメラ神話の語りのなかで最も鮮明に現われている。
このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが、それはリビドー libidoである。
これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)ものである。
対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。
乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)
《生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)もの》とあるが、この控除という言葉は、次の文とともに読むと、よりいっそう鮮明になる。
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
前回も引用したが、最晩年のラカンはこう言っている。
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
この種々の去勢により、人はみな享楽回帰運動(喪われたモノは取り戻そうとする運動)があるのである。
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
ラカンはこの反復強迫としての享楽回帰について、こう言っている。
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)
ようするに去勢による反復強迫とは、去勢による死の欲動である。死の欲動とは、究極の融合(原エロス)の廻りの循環運動、あるいは引力と斥力(融合と分離)の運動ということである(参照)。あるいは去勢の廻りの循環運動と言ってもよい。
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
こう図示してみると、ここでの話題とは別のことをふと思いついてしまい、記述が長くなる悪癖がわたくしにはある・・・
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
・・・さて話を元に戻さねばならない。
外傷神経症者(トラウマ神経症者)は、身体の上への刻印(リビドー固着)と、心的装置に同化されない身体的残滓(リビドー固着の「エス=現実界」のなかへの居残り)により、反復強迫(死の欲動)を起こす。身体的残滓とは固着により去勢されたものという意味でもある。《去勢Kastration ⋯とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。》(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
最後に付記的に記しておけば、この反復強迫=死の欲動は、フロイト解釈においては、ニーチェの永遠回帰である。
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
ーーああ、いまだ先ほどの「母なる去勢」悪影響から逃れられない。《永遠回帰に対する最も深い異論は母である》(ニーチェ『この人を見よ』)
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。
……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: 」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
・・・さてまた復活してなんとか最後まで辿りつかねばならぬ。とはいえ蚊居肢散人はちょっとした高所恐怖症なのであるが、その原因がようやく最近になって判然としてきたのは、ニーチェ、フロイト、ラカン三人組のおかげなのである。
・・・自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
だがブログ記事破壊欲動から立ち戻らねばならぬ・・・
マルクスの価値形態論自体、その究極においては、「資本の永遠回帰」である。これは、すでに柄谷行人によって「資本の欲動」と命名されているものの別の言い方にすぎない(参照)。
上に引用したジジェク2012の《ラカンの幻想の式 $ ◊ a にあらわれる $ / a とは、要素なき空虚の場/場なき過剰の要素である》における「要素なき空虚の場/場なき過剰の要素」とは、直接的には言及されていないが、マルクスの「資本の中身なき形態/自動的フェティッシュ 」と相同的である。
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
ーーなどという話は実はどうでもよい、というのがこの記事を書き進めるうちに知り得た成果である・・・
自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。Comment faire pour écrire autrement que sur ce qu'on ne sait pas, ou ce qu'on sait mal? (ドゥルーズ 『差異と反復』「序」1968年)