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2019年3月26日火曜日

男性同性愛者の「母への深く永遠な関係」

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできない。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)


以下、60年あまりも生きてきたにもかかわらず、不幸にも男性との性的接触をたった一度しか経験していないものが男性の同性愛について記す。

さらにいっそう不幸なことは、接触したといっても能動者側であり、わたくしのなかにある女性性‐受動性の胚芽は、男性との接触において刺激されることははなかったのである。

倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。(プルースト「ソドムとゴモラ」)

偉大なるプルーストには、同性愛という語彙はない。

私はフランス文学全体の最も重要な探求者とも言えるプルーストが、同性愛という言葉を認めようとしなかったこともつけ加えます。 プルースト は、 同性愛ではなく性的倒錯者(inverti) ・ 性的倒錯(invertion)の語を使う方を好みました。(フィリップ・ソレルスへのインタビュー―パリ・ガリマール本社、2017 年 8 月 28 日―阿部静子)

この、フロイト語彙では「性対象倒錯 Inversion」の経験不足という限りない不幸を補うために、最近はもっぱら女性の方に能動性の役割を担うことを依頼している。実現することは稀ではあるが、ないよりはましである。

とはいえ、男性の同性愛者も、不幸な種族でありうる。

すべての人間はバイセクシャルである。人間のリビドーは顕在的であれ潜在的であれ、男女両方の性対象のあいだに分配されているのである。alle Menschen in diesem Sinne bisexuell sind, ihre Libido entweder in manifester oder in latenter Weise auf Objekte beider Geschlechter verteilen.(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

⋯⋯⋯⋯

前期ラカンはこう言っている。

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)

この見解は、最近になってもほぼ支持されている。

男性の同性愛者の女への愛 L'amour de l'homosexuel pour les femmes は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「女というもの Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。男性の同性愛者の母への愛は、他の性への欲望 désir pour l'Autre sexe のこよなき防御として機能する。…

私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller)


ラカン派の観点とは、上にあるようにもともとフロイト起源である。フロイトは何度も似たようなことを記しているが(参照)、ここではレオナルド・ダ・ヴィンチ論から抜き出す。

われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しいエロス的結びつき erotische Bindung があった、ーー母親自身の過剰な優しさ Überzärtlichkeit によって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中に父親があまり出てこないということによって。……

さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。

母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る。子供は自分自身を母の位置に置き、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデルVorbildにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自己愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理 Ersatzpersonenであり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。

言わば少年は、愛の対象Liebesobjekteをナルシシズムの道 Wege des Narzißmusの途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスNarzissusと呼んでいる。
心理学的にさらに究明してゆくと、このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。

彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はそうすることによって、彼を不忠誠にしうる他の女たち anderen Frauen davon, die ihn untreu machen könnten から逃げ廻っているのである。

われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は標準的な男性と同様、女の魅力のとりこになることを証明しえた。しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に置き換え überschreiben、絶えず彼がかつて同性愛を獲得したあの機制を繰り返すのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)

男性の同性愛者においては、この母への愛の抑圧(防衛)があるので、彼らの多くは、愛ではなく欲望しか語らない事例が多い。もちろんここで、例外を想い起さねばならない。わたくしの知る限りでも、プルースト、ロラン・バルト、ジャン・ジュネ、そして日本では折口信夫。

そして「資本の言説」(=後期資本主義における社会的結びつき)の時代は、そもそも愛の事柄を排除する(もしくは否認する)時代である(ラカンの定義によれば[参照])。現在のイデオロギー(市場原理という非イデオロギー的イデオロギー)は、愛ではなく欲望のみを語ることを促すのである。人はこの「はしたない」イデオロギー猖獗に立ち向かわねばならない。

ロラン・バルトはすでに1977年の時点でこう記している。

『恋愛のディスクール・断章』⋯⋯⋯このような書物が必要とされるについては、恋愛にかかわるディスクール(愛の言説 discours amoureux)が今日、極度の孤立状態におかれているという考察があった。このディスクールは、おそらくは幾千幾万の人びとによって語られているだろう(本当のところは知りようもないが)。しかし、これを公然と宣揚する者はひとりとしていない。恋愛のディスクールは、これをとりまくもろもろの言語活動から完全に見捨てられている。無視され、軽んじられ、嘲弄され、権力はおろかその諸機制(科学、知、芸術)からも遮断されてしまっている。このように、一個のディスクールが、その本性ゆえに、現実ばなれしたものとしての漂流状態 la dérive de l'inactuel に陥り、集団性の埒外へと運び出されている。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』1977年)

この時代に反時代的に立ち向かうためには、「欲望」という語から「愛」という語への移行が是非とも必要である。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

ことさら日本では、凡庸な思想家やら批評家やらが、「欲望」という語を跳梁跋扈させているが、あれこそ時代の侍僕たち、イデオロギーの奴隷たちの破廉恥で厚顔無恥な振舞いである。わたしは彼らを「資本の言説の掌の上で踊る猿」と呼ぶことを好む。


さて次にジャック=アラン・ミレールの男女の同性愛の相違を示す文をふたつ掲げる。

男性の同性愛は、女性の同性愛とはまったく異なった形で構成されている。女の同性愛は愛の審級にある。男の同性愛は欲望の審級にある。男の同性愛は、愛から完全に分離されている。(ジャック=アラン・ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour、1992)
問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。

この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)

《ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ》とあるが、ここでの大他者とは「他の性」のことである。

「大他者L'Autre」とは、私のここでの用語遣いでは、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。(ラカン、S20, 16 Janvier 1973 )
「他の性 Autre sexe」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexe」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)

人間にとっての原大他者は男女ともに母である。したがって根源的な愛の対象は「母‐女」である。

ジジェクはこう言っている。

性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体とその「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

この二つの関係をトーラス円図で示せばこうなる。





これをめぐってさらに別の観点がある。フロイトにとっては、男性の同性愛者と女性の異性愛者は、標準的には「母との同一化→ナルシシズム」という機制をもっている。

母との同一化とは母の場との同一化という意味であり、この機制により原初の愛の対象から免れうる。

母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

※詳しくは、「男と女の愛の相違」を参照のこと。



さらにフロイト観点では、人間は愛の構造において、「異性愛者/同性愛者」という対立軸はそれほど重要ではなく、マザーコンプレクス/ナルシシズム(二次ナルシシズム)という対立軸のほうがはるかに重要である。


愛の三界


そして男性の同性愛者と女性の同性愛者はナルシシズム側にある。

・男性の同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。

・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

そして男性の異性愛者はもちろんマザーコンプレクス(あるいは母への「愛憎コンプレクスLiebe-Haß-Komplex」)側にある。女性の同性愛者がマザーコンプレクスと厳密に言えるかどうかは判然としないが、女性の異性愛者に比べれば明らかにマザコン側にあるだろうことは、ミレールが示している通りであり、仮に彼女たちをマザコン側に置いて図で示せばこうなる。







巷間でしばしばみられる、女性の異性愛者たちにおける男性の同性愛者への親しみ発露の理由のひとつは、おそらくこの構造にある。


ここまでの記述はフロイト・ラカン派的観点のみのものであり、しかも彼らの時代から時を経た現在、Jean-Pierre Deffieuxの言うように《私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…》と強調しておかねばならない。すなわち同性愛の真理は非全体 pastout である。

真理は女である die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
真理は女である。真理は常に既に、女のように非全体 pas toute である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)

⋯⋯⋯⋯

とはいえ、ミレール曰くの《男の同性愛は欲望の審級にある。男の同性愛は、愛から完全に分離されている》という風に考えること、すくなくともその傾向があるのではないかと疑うことは、とても重要である。


男/息子は、彼の愛の原対象(母-女の性)を維持できる。娘にとっても、母は最初の唯一の愛の対象である。娘が父へと移行するのは、第二ステージでしかない。この移行はたんなる置き換えである。父が前景に現れるとしても、母の像はつねに背景にある。

この理由で、レスビアン関係はゲイ関係とは直接的な共通点はない。母子関係という最初期の経験の結果として、女性ははるかに容易にバイセクシャルのポジションを受け入れる。彼女はすでに愛の対象として両性を選択している。一方の性から他方の性への移行がある。

反対に、男性にとっての同性愛の選択は、はるかに大きな一歩を踏み出す必要がある。この大きな一歩により、後の生においての性の対象選択の裏返しは容易ではない。

少女にとって、母は最初の愛の対象であり、この対象は父と交換されるという事実が意味するのは、父は少女にとって「二次的選択」だということである。結果として引き続くどんなパートナーも少なくとも「三次的選択」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)


ここにも人間の発達段階初期に遡って《レスビアン関係はゲイ関係とは直接的な共通点はない》という見解が示されているが、この事実はおそらく疑いようがない。

この観点に立てば、たとえば、ゲイとレスビアンが共闘するLGBT運動は、根本の部分で矛盾がある。思春期あるいはそれ以降、既存イデオロギーとしての社会規範に苦しめられた者たちの社会運動という点だけは同一性があるにしろ、それ以外では本質部分で相剋がある、と言うことができる。


最後にフロイトの基盤となる認識を示す文を掲げておこう。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着(アタッチメントAnlehnung)に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


「原愛の対象」であるとともに「原誘惑者」の母ともあるが、ラカンなら「原支配者」としての母である。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


最後に冒頭から示した内容とは逆のことを言うが、もし男女ともに女性嫌悪があるとしたら、原誘惑者であり原支配者である母との同一化をした女への嫌悪が、その大きな理由であるだろう。

ところでーー。

最後に私は問いを提出する。…次のことは本当であろうか? すなわち、全体的に判断した場合、歴史的には、「女というもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく。"das Weib" bisher vom Weibe selbst am meisten missachtet wurde - und ganz und gar nicht von uns? -(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)