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2019年10月23日水曜日

マルクス的な「構造的作業仮説」のすすめ

二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。

これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)

………

『凡庸な芸術家の肖像』で、蓮實は実にたくみにマルクス的言説について記している。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

たとえば真の構造的マルキスト柄谷行人が『世界史の構造』で提示した「世界資本主義の歴史的段階」は一つの虚構にすぎない。だがこのモデルはとても多くのことを考えさせてくれる。経験論者ばかりが跳梁跋扈している日本ではいっそうのこと(総体的な視点を確保するために)こよなく貴重な構造的作業仮設でありうる。





たとえばここからラカン的用語を使って次のように示してみよう。



柄谷モデルによれば、1990年以降の「父なき時代」としての新自由主義時代とは、父が存在していた時代の自由主義時代とは異なり、帝国主義的(弱肉強食的)時代なのである。

ここでの父とは権威のことである。

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

これはなにも世界史の構造だけへの示唆ではない。たとえば日本共同体の現在の構造に思いを馳せることも当然できる。一神教ではない日本はもともと権威の機能が弱い社会であるとしばしば指摘されてきたが、それにしても1990年を経てのこの今の日本である。なぜこんなに収拾のつかないヒドイ社会になってしまったのか。権威なるもののほとんど完膚なきまでの消滅がその主因ではなかろうか?ーーこういった問いを出してもよいはずである。

個を越えた良性の権威へのつながりの感覚(……)、これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


柄谷行人によるもう一つの重要な構造的モデルはボロメオの輪である。

フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
ネーションおいて現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されている。…それは、資本主義経済(感性)と国家(理性)がネーション(想像力)によって結ばれているということである。これらがいわばボロメオの環をなす。(柄谷行人『世界史の構造』2010年)

次の図のアソシエーションXの箇所については、柄谷が直接しめしているわけではないが、ラカンのボロメオの環に依拠すれば、かならずこうなる。




それぞれの項は次の意味合いをもっている。



Dについては柄谷行人は別に「帝国の原理」とも示した。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷行人のボロメオの環に戻れば、その基本的読み方は次のとおりである。

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ラカンのボロメオの環は、文化共同体分析に援用すればこう示せるが、これは柄谷の言っていることと相同的である。




この図について、まずジジェクから引用しよう。

イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。. (Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)

ようするにイデオロギーの箇所は「民主主義」、ヘゲモニーの箇所は「政治」と代入してもよい。

そしてヘゲモニーの項に主人の言説、エコノミーの項に資本の言説と付け加えたのは次の意味である。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。…

資本家の言説…、それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)

ラカンはここで(学園紛争後)、主人の言説から資本の言説への移行を指摘している。主人の言説の崩壊とは、別の言い方なら、《父の蒸発 évaporation du père》(「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)であり、あるいは《エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971年)である。

主人の言説から資本の言説への移行とは、柄谷行人語彙では、国家から資本への移行である。

もうひとつ、柄谷行人のX(アソシエーション、世界共和国、帝国の原理)とは、ラカンのΣであり(このサントームΣには二種類の意味がある[参照])、ようするにかつての支配的父の名ではなく、支配の原理(三界の結び目)としての父の機能である。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

柄谷やラカン的視野においては、現在、世界において、あるいは日本においてはことさらこの「支配の原理としての父の機能」なのである。

柄谷行人はこう言っている。

私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

土台が変わったのである。土台が抑圧的家父長制(国家、主人)であった時代のみ脱構築(ディコンストラクション)はその機能を果たした。ところが現在、脱構築は資本の論理と相同的な支配的イデオロギーである。

柄谷とラカンの言っていることは、時期的には柄谷は冷戦終了以後、ラカンは学園紛争終了後との相違はあるが、構造的には同一性があり、次のように図示しうる。





かりに下部構造という言葉を活かして、ボロメオの環を使って図示すればこうなる。




いま三つの環を色を塗って示したが、これは、①資本は国家を支配しようとする、②国家は国民を支配しようとする。③国民は資本を支配しようとするということであり、これがボロメオの環の基本的読み方である。

これは、柄谷行人の記述と実に近似している。

ネーションおいて現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されている。…それは、資本主義経済(感性)と国家(理性)がネーション(想像力)によって結ばれているということである。これらがいわばボロメオの環をなす。(柄谷行人『世界史の構造』2010年)

くりかえせば下部構造が国家から資本へと移行があったのである。だが現在に至っても二周遅れの哲学者連中が、マガオで脱構築やら脱領土化やらを体制反覆の思考として顕揚する気風が残っている。そんなものは《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁する》ものでしかないのに。

これがジジェク が次のように言っている意味である。

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)

以上、柄谷的な、あるいはラカン派的な構造的作業仮説なしで、現在の新自由主義時代における共同体や国家分析に耽るのは、ほとんど徒労であり、ほとんど無意味でる、と言いたい。

学者たちにもそれぞれ得意分野があるだろうが、わたくしに言わせれば、オピニオンリーダーとして発言したいらしい政治学者や社会学者(あるいは文学者)はあまりにも経済的知に疎すぎ、構造的思考が欠けている。




広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

ここで身近な話の事例を出そう。巷間の心優しき評論家諸君は、弱者擁護にひたすら終始するだけではなく、なによりもまず次の構造を念頭に置いて思考することが不可欠である。






たとえば、あれら心優しき評論家諸君はじつは最も残酷な「未来の他者」に対する財性的幼児虐待していないかどうかを一瞬でもいいから疑ってみることである。

「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とは、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 日本でも一部で流通しているが、現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

つまり「財政的幼児虐待」の内実は次のような意味である。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ『国家債務危機』2011年 )
簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、いろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

シェイクスピア曰く、

邪な心を抱いて正しい行為
そして正しい心を抱いて邪な行為

wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act

ーーシェイクスピア『終わりよければすべてよし』

ここでの話に言い換えれば、共感の共同体にどっぷり浸かった、あれらきわめて善良で誠実な評論家やら文学者やらの諸君は、「短期的には弱者擁護という正しい心を抱いて、長期的には未来の他者虐待という最悪の行為をしている」--ひょっとしてこういった振る舞いをしているのではないか? なにも財政問題に限らず、類似した現象はじつは誰にでもある話である。

マルクスは言っている、「彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es」(『資本論』vol I: 88)



※付記

新自由主義という勝ち組・負け組を無意識的に生み出すシステム
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になる瞬間」(マルクス)である。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006年)