A 心身一体的身体
(1)成長するものとしての身体
(2)住まうものとしての身体
(3)人に示すものとしての身体
(4)直接眺められた身体(クレー的身体)
(5)鏡像身体(左右逆、短足など)
B 図式〔シューマ〕的身体
(6)解剖学的身体(地図としての身体)
(7)生理学的身体(論理的身体)
(8)絶対図式的身体(離人、幽体離脱の際に典型的)
C トポロジカルな身体
(9)内外の境界としての身体(「袋としての身体」)
(10)快楽・苦痛・疼痛を感じる身体
(11)兆候空間的身体
(12)他者のまなざしによる兆候空間的身体
D デカルト的・ボーア的身体
(13)主体の延長としての身体
(14)客体の延長としての身体
E 社会的身体
(15)奴隷的道具としての身体
(16)慣習の受肉体としての身体(マルセル・モース)
(17)スキルの実現に奉仕する身体
(18)「車幅感覚」的身体(ホールのプロキセミックス、安永のファントム空間)
(19)表現する身体(舞踏、身体言語)
(20)表現のトポスとしての身体(ミミクリー、化粧、タトーなど)
(21)歴史としての身体(記憶の索引としての身体)
(22)競争の媒体としての身体(スポーツを含む)
(23)他者と相互作用し、しばしば同期する身体(手をつなぐ、接吻する、などなど)
F 生命感覚的身体
(24)エロス的に即融する身体(プロトペイシックな身体)
(25)図式触覚的(エピクリティカルな身体)
(26)嗅覚・味覚・運動感覚・内臓感覚・平行感覚的身体
(27)生命感覚の湧き口としての身体(その欠如態が「生命飢餓感」(岸本英夫))
(28)死の予兆としての身体(老いゆく身体――自由度減少を自覚する身体)
そして付記的に、
(29)暴力としての身体(暴力をふるうことによってバラバラになりかけている何かがその瞬間だけ統一される。ひとつの集団が暴力に対して暴力をもって反応する時にはその集団としてのまとまりが生まれる)
⋯⋯⋯⋯
ラカンにおける身体の分類は二分類ーー「イマジネールな身体」と「穴としての身体」である(より厳密に「三分類」という観点もあるがここでは割愛)。
上の中井久夫の29分類区分を、この大二分類でさらに大括り分割してみようとふと思いはしたが、無謀な試みはやめておくことにする(やろうとしても6中分類が機能しなくなり、かなりムリが生じる)。
ここでは、ラカンの二区分を示しておくだけにする。
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。
L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (ラカン、ニース会議 Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)
すなわち、「自らのイマージュ」=「イマジネールな身体」、「身体は穴」=「穴としての身体」としての二分類である。
ラカンが「話す身体 corps parlant」というときは、「穴としての身体」を指している。
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
他方、「イマジネールな身体」とは、前期ラカンの身体である。
私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。
忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。
しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF)
ここでFlorencia Farìasが言っているのは、前期ラカンの「想像界は常に‐既に象徴界によって構成されている」という文脈のなかにある。そして《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)。
つまりイマジネールな身体とは、身体的なものではなく、心的なもの(言語的なもの)に属する。これが前期ラカンの身体である。
このイマジネールな身体の彼岸にある「欲動の現実界 réel pulsionnel 」、つまり「欲動の身体corps pulsionnel」、「リビドーの身体 corps libidinal」が、ラカンのセミネール20で入った「話す身体 corps parlant」に相当する。
・欲動の現実界le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。
・原抑圧 Urverdrängt (リビドー固着)との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
この二つ身体、--「イマジネールな身体」と「話す身体」(穴としての身体)は、次のように注釈されもする。
言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、他者によって話される身体 corps parlé、享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 corps qui jouit である。 (Florencia Farìas、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)
ラカンの「ファルス享楽/女性の享楽」語彙を使って言えば、「ファルス的身体」と「女性的身体」ということになる。
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽[参照]) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールは、最近次のようなボロメオの環の図を示している。
もっともソレールが示しているのは、正確にはこうではない。たとえば「話す身体 corps parlant」を現実界の箇所には置いていない。話す身体は、人間が感知しうる現実界という意味において、実際は、Vrai Trou(真の穴)の箇所に置かれるべきかもしれない。
わたくしが今、仮に上のように置いてみたのは、ラカンの「欲動の現実界 le réel pulsionnel 」、そしてニーチェ・フロイトの「エス」という表現を想起しつつである。フロイトにとってのエスはラカンにとっての現実界であろうから。
エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
ラカンの「話す身体」とは、結局、「話すエス」である。
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)
私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)
そしてイマジネールな身体とは、自我のことでもある。
イマーゴ imago は、因果的装填 chargée de causalitéとしてのイマージュ imageである。…イマーゴとしてのイマージュl'image comme imago は、問題となる心的なものを捕獲する力能 puissance de capter, de capturer le psychism をもっている。このイマーゴをフロイトは自我 le moi と呼んだ。(Jacques-Alain Miller, L'Être et l'Un, Cours du 18 mai 2011)
したがって(厳密さを期さずに)フロイト版ボロメオの環を示せば、次のようになる。