2019年4月19日金曜日

ドゥルーズの赤いスカート

ああ、家族のことはどうでもいいって記したがね、エディプスコンプレクスモロの男だから、アンチエディプスを強調したかも、ってのは当然あっていい問いだろ? そんなの言うまでもないってことだ。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

いくつかの伝記を掠め読むかぎりでは、ドゥルーズの母は、《エディプス的母、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父と関係を結ぶこと女》(マゾッホ論)だったようだな。で、ドゥルーズの父は、クロア・ド・フー(Croix-de-Feu)支持の右翼だったそうだ。

父がいつ死んだか、なぜ死んだのかは不明。伝記作家フランソワ・ドッスは、ドゥルーズの兄の死(1944年)後すぐに死んだと書いている。当時19歳。25歳まで母と二人暮らし。友人たちにプルースト並みと称される喘息期をもつ。で、ミシェル・トゥルニエが1949年、独テュービンゲン大学からパリに帰ってきて住んでいた月払いの Hotel de la Paix( サンルイ通り)の隣の部屋に、1950年から母を置いてきぼりにして移り住んだとある。




ーーほとんどどこにも旅行しなかったドゥルーズにとって、この通りが「孤島のロビンソン」の起源じゃないだろうか?






こういうことを書くとドゥルーズファンにキラワレルかもな、でもいくらか彼の書き物に親しくなったら、「ドゥルーズの赤いスカート」をわずかでも探ってみるってのは必然的な仕草だと思うがね。ボクはむかしサルトルでかなり熱心にやったけどな。でもなんでミナサンやらないんだろ? それともこっそりやってこっそり隠してるんだろうか?



素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ


ニーチェと同様、《能動的忘却 aktiven Vergeßlichkeit》、つまり生の肯定性を繰り返す人物は、「強制された運動」を引き起こす「不気味な」外傷的記憶があるんじゃないだろうか。これが冒頭に掲げた神田橋條治の文の別の読み方だ。

たとえばこれは、とっくのむかしにニーチェの愛人サロメが言っていることもある。《永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。》(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文、第3章、1887年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges (タナトス)の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)
欲動蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、1962)

ま、このあたりは深読みってのか妄想的読みであることを認めてもよいよ。

とはいえ《症状のない主体はない  il n'y a pas de sujet sans symptôme》。どんな主体にも原症状(欲動固着)があり、それへの防衛としての症状がある。欲望とは欲動の防衛である。欲望機械は、強制された運動の機械に対する防衛概念ではないだろうか。これが、ラカン派で「厳密にフェティシスト的錯誤」「ドゥルーズの退行」等と長年嘲罵されているこの概念を救う一つの方法だね。

強制された運動の機械(中井久夫とドゥルーズ)




欲望とはラカン派の定義では倒錯でもある。

倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(MILLER, L'Autre sans Autre 、2013)

そして倒錯とは穴埋めである。

倒錯者は、大他者の中の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)

この前提で以下の文を読もう。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
言わねばならない。その問題の人物…私が言祝いだあの人物は、臨床家ではなかった。ただ彼はシンプルにサドとマゾッホ SACHER-MASOCHを読んだのである。(……)

要するに、マゾヒズム masochisme は発明されたのだ。それは皆が到達できることではない。それは享楽と死とのあいだの entre la jouissance et la mort…関係性を確立するやり方である。(……)

人はみな現実界のなかの穴を穴埋する combler le trou dans le Réel ために何かを発明する。現実界は「穴=トラウマ(troumatisme )」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )