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2019年4月9日火曜日

「この世の不幸のもとは安倍だ」

主体が「この世の不幸のもとはユダヤ人だ」と言うとき、ほんとうは「この世の不幸のもとは巨大資本だ」と言いたいのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
ヒトラーがユダヤ人を標的にしたことは、結局、本当の敵——資本主義的な社会関係そのものの核——を避けるための置き換え行為であった。ヒトラーは、資本主義体制が存続できるように革命のスペクタクルを上演したのである。 (ジジェク『暴力』)


この論理はひどく使えるよ。もともとはフロイトのいう「投射 Projektion」メカニズムだけれど。フロイトは繰り返している、人が内的脅威や内的不快から逃れる唯一の方法は、外部の世界にそれを「投射」することだと。

ここで、病的に嫉妬深い夫についてラカンが述べたことを思い出してみればよい。彼が自分の嫉妬の根拠として引き合いに出す事実がすべて真実だったとしても、つまり妻が本当に他の男たちと浮気をしていたとしても、彼の嫉妬が病的であり、妄想の産物であるという事実は、それによって微塵も変わらないとした。 …したがって、われわれはユダヤ人差別に対して、「ユダヤ人は本当はそんなんじゃない」と答えるのではなく、「ユダヤ人に対する偏見は実際のユダヤ人とはなんの関係もない。イデオロギー的なユダヤ人像は、われわれ自身のイデオロギー体系の綻びを繕うためのものである」と答えるべきなのである。(ジジェク『暴力』)

要するに、投射先に対する批判が正しいかどうかは、関係がない。例えば「この世の不幸のもとは安倍だ」という意味内容をもつツイートを繰り返す人物がいるとする。これは、なんらかの自らの内的不快を繕うために安倍に投射しているんじゃないか、少なくもそう疑うべきだね。こう記しているわたくしももちろん例外ではない。

これは鳥語装置では覿面に露呈するので、例えばフェミニストのなかには異性愛的既存規範への批判を強迫的に反復している人物がいる。いま最も典型的には、柴田英里だな。ある程度は彼女の批判は正しいよ。でも彼女の極度の強迫性からみて「ひどい妄想者」だと判断できる。

妄想の意味を誤解してはいけない。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)

ーーラカン派的にいえば、妄想とは「現実界に対する防衛 défense contre le réel
」ということになる。これはじつは誰もがしている。したがって「人はみな妄想する」がある。

現実界とは最も簡潔にいえば、トラウマということ。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Vie de Lacan、2010)

トラウマとは心的装置に同化されず身体的なものとして居残った出来事、あるいはその記憶。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)

理論的にはトラウマには喜ばしいトラウマだってありうる。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)


場合によっては「トラウマへの固着」こそ永遠回帰する人間の個性だとさえすることができる(フロイトの定義においては反復強迫=永遠回帰である)。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


 話がだいぶ逸れてしまったが、冒頭からの話に戻して一般論としていえば、次のようなことが現在、あるいはいつの時代でも起こっている。これはラカン派が政治を語るとき使う常道的語り口。

我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。…

ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全ての態度に共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、What About Me? 2014年)

さらに最も基本的にいえば、怒りや攻撃性というのは、自らの無能の表出だということだ。