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2019年4月10日水曜日

神による身体の上への刻印

「神による身体の上への刻印」の「神」とは、「人はみな神の言葉で喋るべきである」で記したように、あの途轍もない厄介な女のことである。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この「女というもの」は実質上、LȺ Mèreである。

ララング langageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens、2011)

上にあるようにララングとは、オッカサマが身体の世話をするときに使う「母の言葉」である。いつから身体の世話が始まるかといえば、実際は母胎内のときからに決まっている→中井久夫のララング論

したがって人は、試験管ベービーにでもならなかったら、母の支配からはけっしてのがれられないのである。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

これは美女、醜女にはまったく関係がない。優しい母、恐い母にもまったく関係がない。母のイメージではなく、構造的必然なのである。そして標準的な女性は「母との同一化」があるのはすでに何度も示した。ようするに「すべての女、これ母なり」(仏典)である。

話を戻せば、この最初の母による徴を母なるシニフィアンと呼ぶ(ラカンには中井久夫ほどの過激さはないので、このシニフィアンの徴付けは出産後である)。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

この母なるシニフィアンを徴づける母なる支配者は、母なる誘惑者でもある。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

原愛の対象でありながら、原支配者であり、原誘惑者(原性的ハラスメント者)であるのだから、嫌われたり怖れられたり誘惑し返されたりするのは当然である。

ハラスメントの原義は侵入である。

彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年)

ああ、《世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし》(蜀山人)

あるいは、

女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』第48番)

この構造的必然を認めない人物をマヌケと呼ぶ。

母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

女性嫌悪、女性恐怖、女性への性的ハラスメントという不幸を消滅させるためには、試験管ベービー等の人口子宮導入の徹底化が必要である!

かつまた最初の世話役を男(あるいは主夫)にせなばならぬ。ロボット使用という手段もある。だがロボットの形態は男型が好ましい。しかも乳房から乳がでるのではなく、乳はペニスからでる形態がよい。そうすれば「論理的には」男性嫌悪が根源的なものになると同時に、男による女へのセクハラから、女による男へのセクハラが支配的になる筈である。蚊居肢子のように真のフェミニストでありたいなら、人はこういった思考をせねばなりません!

もっとも今こう記して気づいたが、人口子宮のなかに二年ほどいてから出生する手段もある。人間のそもそもの不幸の根源は、未熟児で産まれてくるせいである。そのせいで最初の養育者が絶対的な支配者になってしまう。さらにヒト族における愛などという厄介なものの起源もそのせいである。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ヒト族は原初、サル族に勝とうとして多産を願った(参照)。だが、

他のサル類よりも格段に妊娠期間を短くするためには、赤ん坊を未熟児で産むほかなかった。だから、一歳までは、他の動物の胎児なみの保護が必要な状態であり、一歳までの成長があれほども急なのである。(⋯⋯)それでもヒトの赤ん坊の知能はチンパンジーの赤ん坊に劣る。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年)

ああ、蚊居肢子はなんというあらたな洞察をしてしまったことか! 今後のヒト族にとって決定的なのは、人口子宮二年施策である。こうすればヒト族に愛やらセクハラ気質は消滅することだろう! とはいえそのとき人間は人間でなくなるやもしれぬ。これはめでたいのかめでたくないのかの判断は保留せねばならない。


フロイト・ラカン派では「我々の存在の核」は、リビドー固着とかサントームだとかいうが、実際上は、母なる大他者による身体の上への刻印がその中心にある。

享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(バーハウ、2009) 

ああ、手癖の悪い母に育った子供の不幸! ここから来たるべきヒト族は逃れなければなんらない!

むかしは貴族階級は乳母に育てられることが多かった。この乳母の手癖は、赤んぼうを寝かしつけるときおちんちんを撫でることだったのはヨク知ラレテイル。だから貴族階級には性癖が悪い輩が多いのである。天皇家? さあってっと。

「養母」が男の奴隷という例もあるだろう。するとーー、

男性によっての男児の養育(例えば古代における奴隷による教育)は、同性愛を助長するようにみえる。今日の貴族のあいだの性対象倒錯(同性へのリビドー 固着)の頻出は、おそらく男性の召使いの使用の影響として理解しうる。母親が子供の世話をすることが少ないという事実とともに。(フロイト『性欲論』1905年)

ほかにもたとえば、清潔好きの母親、おしりの穴を念入りに清める母親に育てられたら、どうなるかはもはやいうまでもなかろう。

中井久夫はより綿密に幼児期の母との接触による身体的刻印(外傷的刻印)を記している。

漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎(となる)…外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

これらを外傷性記憶(外傷性出来事)と呼ぶのは、ラカン派と同様である。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


⋯⋯⋯⋯

今うえに一部引用したが、ここまで記したことのとても分かりやすい注釈としてバーハウ2009の文をいくらかラカン自身の発言を挿入しつつ示しておこう。ここには日本ラカン派社交界においていまだほとんど全滅の「大他者の享楽」のめざましい注釈もある。

享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

《大他者は身体である!L'Autre, …c'est le corps ! 》(ラカン、S14、10 Mai 1967)
《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係している。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。

この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…

ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。享楽の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…

《身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。

身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...

フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・

享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)

《穴を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou 》(ラカン、S22、17 Décembre 1974)

《ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. 》(Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)


ラカンにおける穴とは、原抑圧(リビドー固着)であり、かつトラウマの意味をもっている。

現実界が…「穴=トラウマ troumatisme 」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974)
身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)