男たちは性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、憧憬しつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
ボクはカミール・パーリアのたんなるファンなんだけどさ、ようするに『性のペルソナ』以外は片言隻語を拾っているだけで真の読者ではない。でも米国ポリコレフェミ文化のなかの爆弾女、真のフェミニスト、パーリアの言葉を浴びればそれだけでも風が吹く。前回記したような月経の話なんかポリコレフェミにできる訳ないからな、「ニーチェの唯一の後継者はフロイトよ」と言い放つ彼女だけさ。
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
冒頭の文は意図せざる安吾批評だね。
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。
私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。
ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい 』1947年)
パーリア はラカンをバカにしてんだけどさ
ラカンなんか読んだら、あんたたちを脳軟化症にするわ! (カミール・パーリア、Crisis In The American Universitiesby Camille Paglia、1992)
二人ともフロイトが大いなる基盤だからな、ほとんど同じこと言ってるや。
どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
次のものは川端康成と同調してんな。
大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。…
私が言っているのは、男たちは母による支配から妻による支配に向かうということだ。これが男たちの生の恐怖である。そしてフェミニズムはこの事実に目を塞いでいる。(カミール・パーリア Camille Paglia Vamps and Tramps、1994年)
「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)
これこそ真のフェミニストである。上野千鶴子さんあたりは、パーリアの爪の垢でも煎じて飲めばよいのに。
家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである。(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』2010年)
彼女は若いとき俳句で鍛えたせいもあるんだろうけど、文章には箴言的な巧みさがふんだんにあるんだな、で、「女の股」まではとってもいいんだ、いかんせん視野狭窄症なんだ、ああ日本フェミ文化・歴史のなんたる不幸!
・判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。
・フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、2011年)
文明が女の手に残されたままだったなら、われわれはまだ掘っ立て小屋に住んでいただろう。(カーミル・パーリア camille paglia『性のペルソナ Sexual Persona』1990年)
男たちは身体的かつ感情的に自らを犠牲にして、女と子供を養い住居を当てがい守ってきた。男たちの痛みあるいは成果は、フェミニストのレトリックには全く登録されていない。連中のレトリックは、男を圧制的で無慈悲な搾取者として描くだけだ。(Camille Paglia, Vamps and Tramps, 1994年)