二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。
これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)
やあきみ。最悪だな。
アンチオイディプスに踊った阿呆鳥たちの紋切型
あれら猫かっぶりのクリシェをさらに劣化させて
鳥語村でヒステリー起こすとは。
20世紀の文芸なんてのは、
第一次世界大戦、ロシア革命、大恐慌、
そしてフロイトを外してあったもんじゃない。
だがいまだフロイトを否認し続けている「作家」と自称するあの種族、
とくに仏研究者やら翻訳者に目立つ気合い系青春派のキャベツ頭、
いまだホモソーシャル小集団内部でキャベツの増殖に励んでいる
あれら言葉の首飾り派、ヤツラの戯言パクって叫び喚くとは。
「おまえはエスesを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスesを語らない」(Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
海の肌をいつもめくっているんじゃないのか?
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
ダリってのは、フロイトの死の一年前、ナチから逃れてロンドンにいるフロイトを、自作をかかえて訪問したぐらいの、フロイトぞっこん作家なんだがな、最低限の一般教養として次の小論ぐらい読んどいたらどうかね、「いたましい自己告白--ダリ初期作品のイコノグラフィー--『性理論』ほか、フロイト著作の精読から生まれたエロスの表現、松岡茂雄、pdf)。
海の肌をめくれば、現れてくるものはひとつしかない。《ほらね。あたしは神よ – Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...》(バタイユ『マダム・エドワルダ』)
(幼少の砌の固着の永遠回帰) |
人はみなよく知っている。神を信じる人すべてにとって、神を何を表象するのか、彼らにとって神はどんな置を占めているかを。そしてその場から神のペルソナを消去しても、何かが残る。空虚の場が。私が語りたかったのは、この空虚の場です。
tout le monde sait très bien ce que représente Dieu pour l’ensemble des hommes qui y croient, et quelle place il occupe dans leurs pensées, et je pense en supprimant le personnage de Dieu à cette place-là, il reste tout de même quelque chose, une place vide. C’est de cette place vide que j’ai voulu parler. (ジョルジュ・バタイユとマドレーヌ・シャプサルMadeleine Chapsal et Georges Bataill、1961年)
ここではジャコメッティやらブルトンやらとはいわないでおくよ。基本教養篇だからな、知的退行の21世紀にはほとんど皆無になってしまった教養だ。
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…
(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。
グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)
《いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:》(ニーチェ「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」『ツァラトゥストラ』)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)