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2019年6月16日日曜日

外挿法思考

…ようするに官僚の作文なのである。彼らは外挿法思考に浸り切っている。それに振り回されるのは馬鹿げている。

人間は現在の傾向がいつまでも続くような「外挿法思考」に慣れているので、未来は今より冴えないものにみえ、暗くさえ感じられ、社会全体が慢性の欲求不満状態に陥りやすい。(中井久夫「戦争と平和ある観察」 2005年)
外挿法ほど危ないものはない。一つの方向に向かう強い傾向は、必ずその反動を生むだろう。家族の歴史というものはあるけれども、その中にどうも一定の傾向はないようだ。地域によっていろいろあり、時代的にもいろいろあるとしか言いようがない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年)

財政難で社会保障給付額が3分の2に減額され、さらに高齢者医療費負担を一律3割に上げざるをえなくなってしまっても、通常の高齢者医療費は半減しうるという可能性は十分ある。現在の医者たちは今からその可能性を模索すべきだ。たとえば薬代などわずかの工夫でそうなりうるのではないか。

ただし食費や水道光熱費3分の2減はたぶん無理だろうから、娯楽や交際費の消滅は避けられない。

さらに言えば人はこうでありうる。

私は底辺に近い生活も、スッと入ってしまいさえすれば何とか生きていけ、そこに生きる悦びもあるということを、戦後の窮乏の中で一応経験している。(中井久夫「私の死生観」1994年)

ただし最低限の家族は必要だ。それは生のコミューンと呼んでもよい。現在思考すべきは生のコミューンだ。

「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない。(ヤスパース『罪責論』)


経済学者や財務官僚たちは、財政危機を見抜き、予言し、警告もしてきた。だが彼らは結局、専門家にすぎない。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

要するに彼らのほとんどは既存の秩序を維持するためにはどうしたらよいのかばかりを考えているように見える。だがもはや諦めたほうがいいのである。財政崩壊とは必ず訪れるカタストロフィーである。それは「来るべき第二次関東大震災」以上の近未来的必然である。いま本来すべきことは、《まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することである》(ジジェク『ポストモダンのコミュニズム』)


だが、こう記したって誰もそんなことはしないのはよくわかっている。

哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのは世界を変えることである。Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretirt; es kommt aber darauf an, sie zu verändern.(マルクス『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第十一)

どこをみても「解釈」だけに耽溺するヤツラばかりだ。これこそ現在の最大の不幸である。

マルクスのコミュニズムとは通念としての共産主義ではまったくない。コミューンであり、アソシエーションである。

もし協同組合的生産 genossenschaftliche Produktion が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度 kapitalistische System にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 Gesamtheit der Genossenschaften が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー beständigen Anarchieと周期的変動 periodisch wiederkehrenden Konvulsionenを終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるmögliche」コミュニズム Kommunismus 以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱 Der Bürgerkrieg in Frankreich』1891年)


ーーこの可能なるコミュニズムは、スピノザの「コモン」としたってどうしてわるいわけがあろう。

当面、われわれにとって最も大切なのは、どこかのフェミニズム「左翼=アンチマルクス」評論家のように、「おひとりさま」なんたらという外挿法思考の連発ーーつまり現在の社会保障制度がいつまでも続くという能天気さに囚われた(限られた世代向けのみの)厚顔無恥な慰安思考ーー、このたぐいの言説を徹底的に拒否することであり、新しい家族の形態に思いを馳せることである。

ーーと記しても誰もしないことを知っている・・・人は慰安の言葉がお好きなのである・・・人はほとんどみな既存システム内部の道化師なのである・・・