2019年6月28日金曜日

自閉症の最も深い意味

まず前回も引用した自閉症概念の創出者ブロイラーの文を掲げる。

自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)

ーーブロイラーはフロイトの「自体性愛」概念では誤解を招きやすいので、「自閉症」概念を造語したと捉えてよいだろう。すくなくともここではそう捉えて話をすすめる。

ブロイラーが上のように記す前の、フロイトによる自体性愛をめぐる記述をひとつ掲げておこう。

自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

そして10年後にはこう言っている。

愛Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)


この自体性愛はラカン的な言い方なら次のようになる。

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

プラトンの名が出てきた。今、わたくしが記しているのは導入のための前段であり、いささか長くなりすぎてしまうが、次の二文をつけ加えておいたほうがいいだろう。

哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


⋯⋯⋯⋯

さて本題である。

自閉症とは自体性愛であり、かつまた原ナルシシズムであることを、「私は本当に自閉症的です」にて見た。ラカンは自閉症をめぐって次の表現の仕方をしているのも見た。




そして自閉症Autismusとは語源的には「自己状態」ーーギリシア語の autos(自己)と ismos(状態)を組み合わせた造語であるのを「非自閉症者こそビョウキ」で見た。

そしてこの伝でいけば、自体性愛Autoerotismus とは、「自己エロス」と言い換えうるだろうことも示した。

ところでラカンはこうも言っている。

《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、己れの欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)

さて、「自己状態の最も深い意味は、 己の欠如だ」と言いうるだろうか? これがここでの問いである(あくまでフロイト・ラカンの文脈においての話であり、自閉症の原因は遺伝子的障害やら脳の損傷やらと言っている最近のDSMの考え方は脇に置かせていただくことにする)。

⋯⋯⋯⋯

フロイトは「自閉」という語を二度しか使っていない(わたくしの知る限りでだが)。

外界の刺激から遮断された心的装置の美しい事例、(ブロイラー用語を使えば)栄養欲求さえ「自閉的に autistisch」満足をもたらすこの事例は、殻のなかに包まれて食物供給がなされる鳥の卵である。そこでは母の世話は、保温に限定されている。

Ein schönes Beispiel eines von den Reizen der Außenwelt abgeschlossenen psychischen Systems, welches selbst seine Ernährungsbedürfnisse autistisch (nach einem Worte Bleulers) befriedigen kann, gibt das mit seinem Nahrungsvorrat in die Eischale eingeschlossene Vogelei, für das sich die Mutterpflege auf die Wärmezufuhr einschränkt.; (フロイト『心的生起の二原理に関する定式 Formulierungen über die zwei Prinzipien des psychischen Geschehens』1911)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

先に掲げた文を、フロイトの死の枕元にあったとされる草稿の次の文とともに読んでみよう。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着 Anlehnung に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ーー《原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung》とある。これを「自閉的リビドー備給」、あるいは「自己状態的リビドー備給」と言い換えてみることにする。

人はみなこの「原ナルシシズム」=「原自己状態」を取り戻そうとするというのがフロイトの考え方である。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズム(一次ナルシシズム)を取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

原初から既に何かが喪われているのである。「自己状態」には原喪失がある。

この原喪失は去勢(原去勢)とも呼ばれる。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、身体自体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller, Introduction à l'érotique du temps、2004)

ーーここでミレールが言っている《身体自体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre 》は、次の文とともに読むとよりわかりやすい。

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

さて先に言ってしまえば、自閉症の根、自己状態の根には、己れの身体の去勢があり、その去勢の廻りの反復強迫運動があるのである(後詳述)。冒頭近くに掲げた問い「自己状態の最も深い意味は、 己の欠如だ」における己の欠如は、「己の去勢」と言い換えておこう。

フロイトによる去勢の最も簡潔な定義は次のものである。

去勢 Kastration とは⋯、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

以下、ヴァリエーション文を三つ掲げよう。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分の興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官 seine Körperorgan に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)

己の身体器官であったと感じていたものが外部に離れてしまう。そして己の身体器官の窮極のものは「母」である。この「母なるものからの分離」、これが去勢の第一の意味である。すべての幼児はそう体感する筈だ、というのがフロイトの思考である。これを「喪われた自己状態」と呼んでもよいだろう。

ラカンはこの「喪われた身体としての去勢」について、《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》ともいい、その対象の廻りの循環運動を対象aの最も基礎的定義としている。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


この表現はフロイトにもある、《喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objekts》と。

母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件 ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ーーこの文における《負傷した身体部分への苦痛備給》と同等のものという表現に注目しておこう。ようするに「外傷的なもの」へのリビドー備給ということである。


さてここまでの記述引用から、自閉症(自己状態)・自体性愛・原ナルシシズムの底には、原初に喪われた対象(去勢)があり、そして自閉症的享楽(常同的な身体の反復享楽)とは、そのまわりの反復強迫だということになる。





反復強迫とはもちろん死の欲動(死の本能)のことである。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

事実、フロイトはナルシシズム的リビドーと外傷神経症を結びつけて語っている。

(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーにもまつわりつかれている(備給されているbesetzt)こと、事実上、自我はリビドーのホームグラウンド ursprüngliche Heimstätte であり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地 Hauptquartier であることが判明したことである。

このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。

ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第6章、1930年)

以上より、自閉症もしくはその常同的反復症状ーー《身体の自動享楽 auto-jouissance du corps》(ミレール、2011)--は、外傷神経症とすることができるとわたくしは考える。簡潔に言えば、自閉症は外傷神経症である。

この言い方が奇妙なら、自閉症とは、人がみなもつ「構造的」外傷神経症、と補足的に言い直してもよい。それは通念としての「事故的」外傷神経症に対してである。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997ーー構造的トラウマと事故的トラウマ

ジャック=アラン・ミレールからも二文引用しておこう。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)
分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)

《トラウマ化された享楽》とは、上に引用した《ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった》(ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)を援用していえば、「トラウマ化された身体」と言い換えうる。さらにつけ加えれば、「トラウマ化された自己状態」と。

ラカンは身体は穴だ(1974)と言っている。ラカン用語において穴とは、《穴=トラウマ(troumatisme 》のことである (S21, 1974 )。


さて以上の記述より、「人はみなトラウマ化された自閉状態をもっている」と言えないだろうか? そして、われわれの生はこの自閉状態に対する防衛である、と。--《我々の言説はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である》(ミレール、 Clinique ironique 、 1993)。防衛の巧拙が、人がみな根底にもっている自閉状態顕現の有無にかかわる、と当面言っておいてもよい。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007

※ラカンにおいて現実界とは事実上、トラウマ界である(参照)。

フロイトのいう「身体的なもの Somatischem」ーーラカンの言い方なら「欲動の現実界 le réel pulsionnel 」ーーに対する防衛の手段は主に言語である。もっとも防衛しすぎると、人はニブクなってしまうことを強調しておこう。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

以上、フロイトやラカン派注釈を追ってゆけば、このように解釈されうるということを示したまでであり、現在の「自閉症スペクトラム」概念等とどう繋がるのかは全く不明であるのを断っておかねばならない。

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※付記

ジャック=アラン・ミレールは次の文が後期ラカンの鍵とくり返し強調している。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ようは「リビドー固着=サントーム」(参照)による反復強迫であり、サントームは外傷神経症のことである。ここでの固着あるいはサントームとは原症状という意味である、ーー《症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme》(コレット・ソレール、 Les affects lacaniens , 2011)。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームsinthomeは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveであり、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(Jacques-Alain Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)

そしてサントームの享楽は自閉症的享楽である。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)