このブログを検索

2019年7月9日火曜日

日本ラカン派社交界の言説にはお気をつけを!

ラカンの「自閉症」をめぐる記述をいくらか探るなかでこんな文を拾ってしまった。

自閉症者には無意識がなく、その結果、一般的な自我を持つことができません。フロイトは 「快原理の彼岸」[7]で、死の欲動を説明するために、刺激を感受する皮膚層をそなえた生 きた小胞を持ち出し、それが自らに外皮膜をバリアーとして作り過大な外的刺激から自分 自身を守るという仕組みを持っていると考えました。これは、じつは人間の精神構造のメタフ ァーなのです。フロイトのこの生物学的モデルは主体の構造をあらわしており、外皮膜とは 自我を意味し、小胞の内部は主体自身を意味しているというわけです。これによって自我と 主体の分裂の構造が示されます。ラカンはこの主体を無意識の主体とか、言表行為の主体、分裂した主体、後期になると語る主体などと呼んでいるのです[8]。

この自我の成立には、ナルシシックなイメージも関与しています。この間題はラカンが鏡像 段階論で扱っています。ラカンは、鏡像が自我の想像的形態のべースとなるといっています。 この身体イメージから、私たちが持っている身体感覚というものが生まれてきます。それは、 主体の鏡像の引き受けによる身体イメージからやってきているのです。こうした身体は、外 部とのコンタクトにおける主体の防御バリアーとなるのですが、自閉症者は鏡像段階をとおして自我を作ることができず、自分の身体を持っていません。自閉症者が身体的な直接の コンタクトを嫌うのは、外界、他者が自分に直接侵入してくるからです。自閉症者の衣服の 下には何もないのです。 (向井雅明「自閉症について」2016)

ーー「自閉症者には無意識がない」「自閉症者は…自分の身体を持っていません」等々、これはとんでもない誤謬である。

以下、それを示そう。

ラカンは自閉症的享楽と身体自体を等置している。


身体自体・原ナルシシズム・自体性愛・自閉症的享楽の等置
鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S1005 Décembre 1962
自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. Jacques-Alain Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001) 




そしてこの自閉症的享楽は現在のミレール派(フロイト大義派)では「サントームの身体」と呼ばれる。

サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。

Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)

自閉症者にサントームの身体がないわけがないのである。

ラカンには二種類の身体がある。「イマジネールな身体」と「穴としてのリアルな身体」である。この後者がサントームの身体である。向井雅明が「自閉症者は…自分の身体を持っていません」というときの身体はイマジネールな身体にすぎない。

人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (ラカン、ニース会議 Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)


すなわち、「自らのイマージュ」=「イマジネールな身体」である。そして「身体は穴」というときは「欲動の現実界」の身体である。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

原抑圧の身体、すなわちサントームの身体である。






この欲動の現実界にかかわる夢の臍=原抑圧が、原無意識である。

フロイトは『夢解釈』にて「原無意識」に相当するものを、「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」 「菌糸体」mycelium」「夢の臍 Nabel des Traums」と呼んだ。それは決して表象されえない。しかし固着過程を通して、背後に居残っている。フロイトはこれを「原抑圧」と呼んだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


向井氏のいう「自閉症者には無意識がない」の無意識はたんに「抑圧された無意識」に過ぎない。原無意識は自閉症者においてもかならずある。いやむしろラカン派的な意味での自閉症とは、原無意識の症状なのである。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (MILLER, Orientation lacanienne III, 07/03/2007)

ーーなお主流ラカン派では、現在、フロイトの「原抑圧の時代」と言われている、《the era of the ‘Ur’ – Freud’s Urverdrängung》(Anne Lysy , ECF, NLS, WAP, current President of the NLS, 2011)。これはほとんど「自閉症の時代」、より穏やかに言えば「自らの身体症状の時代」という意味をもっている。

話を戻そう。たとえば、ラカンが「話す身体 corps parlant」というとき、原無意識、あるいは「欲動の現実界の身体」を指している。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

他方、「イマジネールな身体」とは、前期ラカンの身体である。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)


以下、ここでの批判のベースにある二人のラカン注釈者の記述を掲げる。次のように評されることもある二人である。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢病理」(フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」)とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病 psychose ordinaire」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis by Jonathan D. Redmond、2013)


言語のように構造化された無意識と構造化されていない原無意識
フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。

システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着Libidofixierungen)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」の基盤となる原無意識は、システム無意識 System Ubwを表す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2004年)
・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

・言存在 parlêtre のサントーム(原症状・固着)は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール JACQUES-ALAIN MILLER、L'inconscient et le corps parlant、2014)




ミレール の言っている言語のように構造化されている無意識とさえ異なる無意識としての《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》は、ラカンの次の文にかかわる。

ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
穴を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)

以上、冒頭に掲げた向井雅明氏の文は、どんなに贔屓目にみてもひどい誤謬であるのがだれにでもおわかりになったことだろう。


日本ラカン派社交界にはとんでも誤謬を言い続けている小笠原晋也なる人物がいる。ここでは一例だけ挙げよう(参照)。

小笠原晋也@ogswrs Jacques-Alain Miller の jouissance の概念の理解も間違っています.彼は jouissance = réel と常々言っていますが,違います.(2014年09月10日)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン、S23, 10 Février 1976)


わたくしは向井雅明氏は小笠原晋也氏よりはすこしはまともだと思い込んでいたが、すくなくとも冒頭の文のマサアキちゃんは、シンヤちゃんとおなじくらいの重症的誤謬をなされておられる。

みなさん、日本ラカン派社交界の言説にはお気をつけを!