「日本ラカン派社交界の言説にはお気をつけを!」で、セミネール10「不安」のラカンは自閉症的享楽と身体自体の享楽を等置していることをを見た。
このラカンの文は、「分裂病」と「自閉症」概念創出者オイゲン・ブロイラーに起源がある筈である。
ブロイラーは重度の分裂病の特徴として自閉症という言葉を使っている。
身体自体・原ナルシシズム・自体性愛・自閉症的享楽の等置
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(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。
この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。
ーー身体自体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
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自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. Jacques-Alain Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001)
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このラカンの文は、「分裂病」と「自閉症」概念創出者オイゲン・ブロイラーに起源がある筈である。
ブロイラーは重度の分裂病の特徴として自閉症という言葉を使っている。
外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。
この「内なる生 Binnenlebens」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症(自閉性Autismus)と呼ぶ。
Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)
註)自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。
Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911)
ここでは現在のDSMにおける、おそらくカナーとアスペルガー起源にあるだろう「自閉症」との相違には触れない。あくまでブロイラー・フロイト・ラカンにおける「自閉症」を問うている。
上に示したようにラカンにとって自閉症(的享楽)=自体性愛=原ナルシシズム=身体自体(の享楽)なのである。それはミレールの要約文が端的に示している。《自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste.》 (Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001)
ーーこの「身体自体」の意味は、少し前「「異者としての身体」の享楽なる「自閉症的享楽」」で比較的詳しくみた。究極の身体自体とは、自身の身体ではなく異者としての身体、異物Fremdkörper=異軀であることを。
このFremdkörperという語自体、ブロイラーとフロイトの共同研究にあらわれる用語であり、おそらくブロイラー起源である。
トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(ブロイラー&フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
フロイトはこのFremdという語を頻用している(ここではFremdという語をいくらかのヴァリエーション語彙で訳して示す)。
いわば暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln […] fremd (フロイト『抑圧』1915年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
内界にある自我の異郷 ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗リビドー(対抗備給 Gegenbesetzungen)により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
結局、異物とは、リビドー固着の残滓という意味であり、これが原症状(=ラカンのサントーム)である。
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓 Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
そしてラカンは《われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(S23、11 Mai 1976)というのである。
そしてこの異物について中井久夫によるとてもすぐれた定義がある。
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
この究極的には異者としての身体の享楽でありうる「自閉症=身体自体の症状」を、ミレールは《身体の自動享楽 auto-jouissance du corps》(フロイトの自動反復 Automatismus)と呼んでいるのも見た(参照:「「異者としての身体」の享楽なる「自閉症的享楽」」)。
なぜ異物は反復強迫するのか。象徴化(言語化)できないものを象徴化しようとするからである。
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un-2/2/2011)
フロイト自身の表現ならたとえばこうである。
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
ーー《フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。》(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
あるいは、
(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
⋯⋯⋯⋯
ところでわが中井久夫も、自閉症と身体をほぼ等置している。
それは以下の文に現れる。
それは以下の文に現れる。
自閉症と身体
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名辞による色彩の分割(色わけ)は民族と時代によって異なる。近代文化内でも英国、オランダ、日本の各々の100色以上の色鉛筆セットを比較すれば色名の文化的差異と色分布の違いは一目瞭然である。英国の標品が暗色、オランダのが褐色が多く、繊細な相違を強調し、逆に、100色以上においても日本の標品で「黄色」とされる「明るい菜種色」などを欠いていることが多い。
しかし、言語化困難だとはいえ、色や味覚や嗅覚は言語化がなければ、まったく個人の自閉的世界にとどまってしまうだろう。
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
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ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。
しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収)
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ようするにーー当たり前のことだがーー人間には身体の症状と言語の症状がある。ブロイラー・フロイト・ラカンそれに中井久夫は、なによりもりもまず、この身体自体の症状を自閉症として扱っているのである。そして言語とは身体的なものの貧困化・秩序化である。これはたとえばニーチェも初期から何度もくり返していることである。
29歳のニーチェはこう言っている。
なおわれわれは、概念 Begriffe の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語Wortというものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 Urerlebnis に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen。
一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性 Verschiedenheiten を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念 Vorstellung を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形 Urform というものが存在するかのような観念 Abbild を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)
ところでフロイトには現勢神経症と精神神経症という概念がある。
以下、時期の異なる三つの文を示そう。
現勢神経症と精神神経症
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現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。…
現勢神経症 Aktualneurosen の諸症状、すなわち頭が重い感じ、痛み、ある器官の刺激状態、ある機能の減退や抑制には、なんの「意味 Sinn」、すなわち心的意味作用 psychische Bedeutung もない。これらの症状は…それ自体が全く身体的過程 körperliche Vorgängeなのであり、この身体過程の成立にあたっては、われわれの学び知っている複雑な心的機制 seelischen Mechanismenはいっさい抜け落ちている。(フロイト『精神分析入門』第24講、1917年)
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われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。……
原抑圧 Verdrängungen(=リビドー固着) は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。…
現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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精神神経症 Psychoneurosen は現勢神経症 Aktualneurosen なしではほとんど出現しないが、現勢神経症は、精神神経症なしで現れうる(後者は前者なしで現れる wohl aber letztere ohne jen)。(フロイト『精神分析的観点から見た心因性視覚障害Die psychogene Sehstörung in psychoanalytischer Auffassung』1910)
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フロイトは1917年の段階で、現勢神経症はもっぱら身体的過程の症状だとしている。これが人間の地階にある。その上に精神神経症という上階がある。フロイトは身体的なものを覆う心的なものを「心的外被」と何度かくり返している。これも「真珠貝の法話」でみたところだが、一文だけ再掲しよう。
そしてフロイトは《原抑圧 Verdrängungen(=リビドー固着) は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れる》と1926年に言っているのを上で見た。
現勢神経症 aktualneuroseは(…)精神神経症 Psychoneurosenに、「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体的-性的発露 somatischen Sexualäußerung から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912年)
そしてフロイトは《原抑圧 Verdrängungen(=リビドー固着) は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れる》と1926年に言っているのを上で見た。
ーー穴とはラカンにとってトラウマの意味でもある、《穴ウマ=トラウマ(troumatisme )》(S21、1974)。
そしてラカンはフロイトの心的外被に相当するものを症状の《形式的封筒 enveloppe formelle》(ラカン、E66)と呼んでいる。
ようするに次のように図示できる。
もっともラカンは現勢神経症概念に一度も触れていないので、サントームと現勢神経症がまったく同じものと言うつもりはない。いくらか境界の差異はありうる。ただしくり返せば、フロイトとラカンの両者は、原抑圧に関連付けて現勢神経症とサントームを語っているという事実がある。
さらにフロイトは現勢神経症についてこうも言っている。
そしてラカンのサントームはこうである(ここではミレールの簡潔な文を示すが、これは完全にラカンの発言に則っている)。
ようするにサントームはトラウマの審級にある。そして固着の対象である(原抑圧=固着であるのは何度もくり返してきたのでここでは示さない[参照])。
こうして先ほど示した図に次のような補足を入れることができる。
これがフロイト・ラカン・中井久夫の「自閉」をめぐる思考のベースである。
※付記
そもそも最晩年のフロイトとはトラウマへの固着の人である。
トラウマへの固着の人とは、死の本能(死の欲動)の人、固着による無意識のエスの反復強迫の人という意味である。
もっともラカンは現勢神経症概念に一度も触れていないので、サントームと現勢神経症がまったく同じものと言うつもりはない。いくらか境界の差異はありうる。ただしくり返せば、フロイトとラカンの両者は、原抑圧に関連付けて現勢神経症とサントームを語っているという事実がある。
さらにフロイトは現勢神経症についてこうも言っている。
外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
そしてラカンのサントームはこうである(ここではミレールの簡潔な文を示すが、これは完全にラカンの発言に則っている)。
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)
享楽は身体の出来事である。…享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。…享楽は固着の対象である。
la jouissance est un événement de corps.[…] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
ようするにサントームはトラウマの審級にある。そして固着の対象である(原抑圧=固着であるのは何度もくり返してきたのでここでは示さない[参照])。
現勢神経症が外傷神経症と等価ではないか、とは中井久夫も言っている(分裂病の底にも外傷神経症があるのではないか、と問うてさえいる)。
現勢神経症≒外傷神経症
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戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
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今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。
医療人類学者のヤングによれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。
もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。
目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
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分裂病の底にありうる外傷神経症
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統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。
しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
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外傷神経症の治癒方法
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私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)
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外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
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ーー外傷神経症の治療法はここでの文脈においては関係ないが付記的に示した。これが阪神大震災被災後の後期中井久夫である。分裂病の人から外傷神経症の人へ移行したのである。 そして現在の主流ラカン派(ミレール派)において、サントームの身体とは、自閉症の身体である。 |
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)
…………
そもそも最晩年のフロイトとはトラウマへの固着の人である。
トラウマへの固着
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すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。
概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章, 1937年)
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「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」…
これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
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「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。
しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)
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「外傷性記憶」の意味…「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」(中井久夫「記憶について」1996年)
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フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)