ファンタジーとは、象徴化に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)
ラカン派において、究極のファンタジーとは性関係のファンタジーである。
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋める combler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )
穴埋めとは、「性関係はない」という現実界の穴(トラウマ)に対する防衛である。
我々の言説(=社会的つながり)はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)
この防衛を、幻想と言ったり妄想と言ったりする(最晩年のラカンにおいては、幻想=妄想である)。
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. , Vie de Lacan、2010)
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)
■レイプファンタジー
ある種の女たちは、セックスを強制されるファンタジーを抱く。一見したところ、レイプファンタジーというのは、まったく筋が通らない。どうしてそんなことを幻想(ファンタジー)しなくてはいけないのだろう? 実生活ではトラウマ的な、不快で命にかかわるとさえいえることを。
でもより念入りに調べてみると、こういったファンタジーは稀なわけではない。…
ファンタジーというのは私たちの想像力のぎりぎりの限界を、なんの危険もなしに安全に「経験」させてくれる。それは、ある種の人たちにとっての、無理強いされたセックスファンタジーも含まれる。ファンタジーなら全ては許され、なにも悪いことはない。
とはいえレイプファンタジーは悩ましい問題にはちがいない。そんなファンタジーを抱く大半の女たちは異常だとか倒錯しているとかの思いを振り払えないだろうから。
1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの9つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に1回ほど。実際の割合いはたぶんもっと高いんじゃないか。というのは女たちはそのファンタジーを気楽には認める気にはならないだろうから。…
直近のレポート(Bivona, J. and J. Critelli. "The Nature of Women's Rape Fantasies: An Analysis of Prevalence, Frequency, and Contents," Journal of Sex Research ,2009) では、ノーステキサス大学の心理学者が355人の女学生に質問している。どのくらいの頻度で、男もしくは女に、制圧され/強制され/レイプされる[overpowered, forced, raped]、つまりあなたの意志に反して、オーラル/ヴァギナ/アナルセックスをする、――そういったファンタジーを抱くのかという問いだ。
62パーセントの女学生が、少なくとも1度は、そういったファンタジーを抱いたことがあると言っている。だが、その問いで使われた用語によって返答はまちまちだ。「男に制圧される overpowered」と問えば、52パーセントがそのファンタジーを抱いたことがあると言う。その状況というのは、女たちの読むロマンスフィクションに最も典型的に表現されているものだ。だがもし用語を「レイプ」としたら、わずか32パーセントがそのファンタジーを抱いたころがあると言う。これは以前のレポートと似たり寄ったりだ。
レイプファンタジーの頻度はまちまちだ。回答者の38パーセントは1度もないと。25パーセントは1年に1度以下。13パーセントは1年に数度抱くと。11パーセントは月に1度、8パーセントは週に1度。5パーセントは週に数度(応答者の21パーセントは現実の生活で性的暴行を受けていると答えている)。…
レイプやレイプに近似したファンタジーは、ロマンス小説の主流で、フィクションの永続的なベストセラーのカテゴリーのひとつだ。これらの本はしばしば"bodice-rippers"(主人公が性的に暴行される恋愛小説)と呼ばれている、タイトルは“Love's Sweet Savage Fury”の類だ。すくなくとも「強制」を意味するタイトルが多い。そこでは、ハンサムな男がヒロインの魅力に参ってしまって理性を全く失い、女を是非ものにしなくちゃならなくなる、ヒロインが拒絶してさえだ、――女は最初は拒絶する、でもそれから結局は降伏、欲望にとろけ込み、十全な満足という結末になる。…
レイプファンタジーとは何を意味するのか? 私の見解では、ほかのファンタジーとの違いは何にもない。悪いものでもないし倒錯的でもない。メンタルな健康にかかわるものでもないし、実生活での性的性向にも関係ない。ただひたすら、おおよそ女たちの半分ほどに起こるだけのものだ。あなたがそのようなファンタジーを抱き気分を悪くしているとしても、どうすべきかは分からない。でもあなたは独りだけじゃないのだけは受け合っておく。レイプやほとんどレイプのようなファンタジーは驚くほどふつうのものだ。あなたはどう思う?(Michael Castleman M.A.、Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean? 2010)
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享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
ファンタジーが実現してたしまった場合、一般的に、ファンタジーを抱いていた者のほうが抱いていなかった者より衝撃度が強い。たとえば原発事故ファンタジーを強く抱いていた者のほうが、福島原発事故の実現に対して強い衝撃度を抱いたのではなかろうか。
これは、レイプファンタジーの場合にも当てはまる(とはいえ、上に示した統計に従うのなら、レイプファンタジーは女性半分ほどが抱く「ごく標準的なファンタジー」なので、ファンタジーの強度差を問う必要があるかもしれない)。
これ以外に今引用したマゾヒズムという語に注目して、以下のジジェク文を読もう。フロイトの定義では、《マゾヒズムの根には、苦痛のなかの快 Schmerzlustがある》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)であり、さらに《自己破壊欲動》(フロイト、1933)である(参照:穴の享楽 la jouissance du trou)。
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※付記
実に古典的な話なのである(ということを記すと男のファンタジーはどうなの?ときかれることはわかっているが、そんなものはわかりきった話で敢えて記すまでもなかろう?)
幻想の逆説的な地位は、われわれを、精神分析とフェミニズムがどうしても合意できない究極の一点へと導く。それは強姦(とそれを支えているマゾヒズム的幻想)である。
少なくとも標準的フェミニズムにとっては、強姦が外部からの暴力であることは自明だ。たとえ女性が、強姦されたり乱暴に扱われたりするという幻想を抱いていたとしても、それは男性の幻想であるか、もしくは、その女性の父権的なリビドー経済を「内面化」しているために自らすすんで犠牲になったのだということになる。裏を返せば、強姦の白昼夢という事実を認めた瞬間、われわれは男性優位主義的な決まり文句への扉を開けることになる。その決まり文句とは―――女性は強姦されることによって自分が密かに望んでいたものを手に入れるだけのことであり、彼女のショックや恐怖、彼女が自分の欲望を認めるほど正直ではないという事実を示しているにすぎない……。
このように、女性も強姦される幻想を抱くかもしれないと示唆した瞬間、次のような反論が飛んでくる。「それは、ユダヤ人は収容所でガス室送りになる幻想を抱いているとか、アフリカ系アメリカ人はリンチされていることを幻想している、と言っているのと同じだ」。この見方によれば、女性の分裂したヒステリー的な立場(性的に虐待されることに不平を述べながら、一方でそれを望み、自分を誘惑するよう男を挑発する)は二次的である。しかしフロイトにとっては、この分裂こそが一次的であり、主体性の本質である。
このことから得られる現実的な結論はこうだ――(一部の)女性は実際に強姦されることを空想するかもしれないが、その事実はけっして現実の強姦を正当化するわけではないし、それどころか強姦をより暴力的なものにする。
ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会現実において実現するからである。
主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けるとこは絶対できない。私があえて接近しようとすると、ラカンの主体の消滅(自己抹消)と読んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンティティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。
(ジジェク注:これはまた、実際に強姦をする男は女性を強姦する幻想を抱かないことの理由である。それどころか、彼らは自分が優しくて、愛するパートナーを見つけるという幻想を抱いている。強姦は、現実の生活ではそうしたパートナーを見つけれないことから生じる暴力的な「行為への通り道」なのである。)
結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「(主体が)幻想の中で最も切実に求めるものが現実的にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)
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※付記
私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。
私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。(坂口安吾「三十歳」)
どんなに身をまかせたいと焦っても口実がいります。ところで男の暴力に負けたように見える口実ほど女に都合のいいものはありません。じつを言うと私などいちばんありがたいのは神速にしてしかも一糸乱れぬ猛烈かつ巧妙な攻撃です。こちらが付込むべきところを、逆に尻ぬぐいせねばならないような間の悪い思いをけっしてさせぬ攻撃⋯⋯女の喜ぶ二つの欲望、防いだ誇りと敗れた喜びを巧みに満足させてくれる攻撃です。(ラクロ『危険な関係』)
実に古典的な話なのである(ということを記すと男のファンタジーはどうなの?ときかれることはわかっているが、そんなものはわかりきった話で敢えて記すまでもなかろう?)
佐枝は逃げようとする岩崎の首をからめ取りながら、おのずとからみつく男の脚から腰を左右に、ほとんど死に物狂いに逃がし、ときおり絶望したように膝で蹴りあげてくる。顔は嫌悪に歪んでいた。強姦されるかたちを、無意識のうちに演じている、と岩崎は眺めた。(⋯⋯)
にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。
やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』)
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女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ être une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)
古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…
この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)
ま、ラカン派の「戯言」なんか気にしないで、みなさんそれぞれファンタジーに耽ってたほうがいいかもな。
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1992年)
とはいえなんど読んでも、野坂昭如のこの文すごいな、すくなくとも男にとっては。
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
男は、間違って、ひとりの女に出会い、その女とともにあらゆることが 起きる。通常、「成功した性行為 réussite de l'acte sexuel」が構成する失敗が起きる。L'homme, à se tromper, rencontre une femme, avec laquelle tout arrive : soit d'ordinaire ce ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel.(ラカン、テレヴィジョン、AE538、1973)
享楽は関係性を構築しない。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない。la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle (コレット・ソレール 、Les affects lacaniens 、2011)
愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
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欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)
ラカンにおいては「欲望のデフレ une déflation du désir」がある。…
承認 reconnaissance から原因 cause へと移行したとき、ラカンはまた精神分析適用の要点を、欲望から享楽へと移行した。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
いやあ、いくらでもでてくるな、
ラカンからはずれてごくふつうに言えば、
最も美しい風景でさえも三カ月住めば、もはや我々の愛を確保しない。(ニーチェ『悦ばしき知識』14番)
どんなに好きなものも
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな
ーー谷川俊太郎、My Favorite Things
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
デ、トックノムカシニアキタヨ、ソコノキミニハ。
一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。(三島由紀夫「女ぎらひの弁」)