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2019年8月16日金曜日

「家父長制と闘う」というクリシェ

わたしは目を瞠(みは)った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。(上野千鶴子「セクハラ「ガマンしない娘たち」育てた誇り」朝日新聞2018年5月23日)

ーーここで上野千鶴子は、フェミニズム運動のジャーゴンが巷間に流通することになった事態を称揚している。

ところで、前回も引用したように《私は全きフェミニストだ》《フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ》等と挑発する米国ポリコレフェミ文化内における爆弾女カーミル・パーリアは次のように言っている。

判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。(……)フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、2011年)
文明が女の手に残されたままだったなら、われわれはまだ掘っ立て小屋に住んでいただろう。(カーミル・パーリア camille paglia『性のペルソナ Sexual Persona』1990年)

さてどちらの立場をとるべきだろうか?

ここで日本言論界における言説をいくらか拾ってみよう。


公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 『ヒューモアとしての唯物論』所収)
一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)
母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」(=父なる超自我)であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)
明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年『記憶の肖像』所収)



これらはごく標準的な見解だろう。人が「家父長制」という概念をイマジネールな男というレベルで捉えなければ、こうなる。たとえば現在の日本政治を支配しているのはイマジネールな男たちには相違ないが、彼らは男としての機能(言語による経典を守る)を果たしているのかという問いを発すればよい。

機能としての父とは、言語による統制であり、非一神教社会である日本には父なる超自我≒家父長制が十分に機能せず、「根回し」して、「空気」を読みながら行動する文化である(わたくしは、こう言うことにより、一神教文化が好ましいことを示しているつもりはなく、多神教文化の欠陥を示している)。

29歳の浅田彰曰くの《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体》における「父権的なもの/母性的なもの」とは、ラカン的には「父なる超自我/母なる超自我」である。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

この 「父なる超自我/母なる超自我」をボロメオの環を使って示せば、次のポジションとなる。





もっともフロイト自身は次のような形でしか示していない。





先に示したボロメオの環は一般にはわかりづらいだろう。ラカン派でしばしば示される「上階/地階」の形なら、次のようになる。




ーーこの上階にある「エディプス的な父の名」(自我理想)は、地階にある「前エディプス的超自我」を飼い馴らす役目がある。

浅田彰、柄谷行人、中井久夫の言葉を使って言えば、次のようになる。





フロイトにおいて、自我理想と超自我は現在に至るまで等価な概念と扱われてしまうことが多い。なぜなら、フロイトがはじめて超自我概念を提出した『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっているから。

だがラカンが明瞭化した「父なる超自我/母なる超自我」、つまり「自我理想/実質の超自我」の区別はフロイト自身にもある。

以下、資料を列挙しておこう。



フロイトにおける超自我
最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的 allgemeine und nachhaltigeであるにちがいない。このことは、われわれを自我理想Ichidealsの発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代 persönlichen Vorzeit における父との同一化である(註)Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit。(フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(同『自我とエス』)

幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)
超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』1938年)
「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
一般的に神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
ラカン派における超自我
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。 comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,…

超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。…父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
超自我補足
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)
ファルスの意味作用
ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)



現在のラカン派における事実上の用語の捉え方は次の通りである。



………

最後に爆弾女の言葉をもういくらか引用しておこう。

私は、本能生活の非モラル性 amorality of the instinctual life において、フロイト、ニーチェ、サドに従っている。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとする女たちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)

カーミル・パーリアの観点からは、社会運動家上野千鶴子は、泥まんじゅう思想家である。

女性研究は、チャレンジなきグループ思考という居ごこちよい仲良し同士の沼沢地である。それは、稀な例外を除き、まったく学問的でない。アカデミックなフェミニストたちは、男たちだけでなく異をとなえる女たちを黙らせてきた。(Camille Paglia (2018). “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”)

………

ここで示した考え方のやや異なった視点からの文献は、「父なき時代のために」にある。父の機能の復権が現在必要なのである。フェミニストたちのクリシェ「家父長制と闘う」は、「家母長制と闘う」に修正されなければならない。

もっともわが文化において修正されるはずがない、とも言っておこう。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)