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2019年8月15日木曜日

ナイーブなポリコレフェミ言説

「従軍慰安婦」問題に関する集会で必ず出てくる発言に、「自分もその場にいたら同じことをしたかもしれない」というのがある。若い世代の男性にも少なくないし、他の人権問題に専門的に関与している人からもある。男性の性欲の発露だから仕方がないという類の、この種のナイーブな性欲自然主義の正体は一体何なのだろうか。(大越愛子「「従軍慰安婦」問題のポリティックス」『批評空間』Ⅱ 11-1996)

わたくしは大越愛子さんに何の恨みもないが、ーーかつて「植民地問題」についていくらか勉強したなかで彼女の言葉が最も印象に残っているーー、とはいえ人は、《ナイーブな性欲自然主義》などと言ってしまう「ナイーブなポリコレフェミ言説」とそろそろ闘ったほうがいいんじゃないだろうか。

たとえば最近でも上野千鶴子さんはこう言っている。

性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい。相手のあるセックスをしたければ、相手の同意が必要なのは当たり前だろう。セックスは人間関係なのだから、関係をつくる努力をすればよい。(……)

カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ。男たちが変わるのに何世紀かかるかわからないが、この男の不気味さは男に解いてもらいたい。(上野千鶴子「売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化」週刊ポスト2013年6月7日号)

もっとも、わたくしは彼女の言説を追っているわけでまったくはなく、かつて名著『スカートの下の劇場』にひとく魅せられたぐらいであり、上の文の含意を捉えそこなっているのかもしれない。

上のような言説は、江戸の女たちの性欲の「自然発露」を語った田中優子さんあたりが反論すべきではないか、と思ってネットを探ると、上野さんは田中さんと最近対談しているようだ(「大ヒットした『春画展』になぜ女性来場者が殺到したのか? 春画が女性を惹きつける理由を上野千鶴子と田中優子が分析」2016年)。





上野「春画には女の快楽がきちんと描かれています。『喜能会之故真通』でも快楽はタコの側ではなく女の側に属している。もうすこし込み入った分析をしていくと、「快楽による支配」が究極の女の支配だと言うこともできますが、快楽が女に属するものであり、女が性行為から快楽を味わうということが少しも疑われていない。この少しも疑われていないということが他の海外のポルノと全然違うところなんです。能面のような顔をした、男の道具になっているとしか思えないようなインドや中国のポルノとは違う」

上野千鶴子さんは、女の性欲「自然」説までには反対しておらず、ただ一神教文化的な男による女の支配に反発し、二者関係の重要性を言っている。

とはいえやはり、《カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ》である。

これは、たとえば安吾や野坂昭如がすでに指摘していることではなかろうか?

私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」)
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

《もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。》、--これこそラカン的にいえば、次のことである。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)

ラカンは次のようにも言う。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)

S(Ⱥ)とは、穴Ⱥのシニフィアン、穴の名という意味である。

存在しない大他者の起源である原大他者 l'Autre primitif は母なる大他者である。この原初の大他者は母のイメージとは異なる。出生によって喪われた「母なるもの」である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。⋯⋯それは、「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

穴の享楽 la jouissance du trou」で示したところだが、そのいくらかを再掲しておこう。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望 sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objekts への強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

別の言い方をしよう。

上野さんは《カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ。男たちが変わるのに何世紀かかるかわからないが、この男の不気味さは男に解いてもらいたい》と言っているが、すくなくとも男たちにとって不気味なものの起源は、フロイトにおいては女性器なのである。

風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

そしてこの原「不気味なもの」が反復強迫(=死の欲動)をもたらす。

心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

ラカンはこの女性器に代表される不気味なものを「外密 extimité」と呼んだ。


外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
対象a は外密である。l'objet(a) est extime(ラカン, S16, 26 Mars 1969)
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン, S16, 27 Novembre 1968)
現実界は …穴=トラウマを為す[fait « troumatisme »](Lacan, S21, 19 Février 1974)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)



不気味なもの=外密=異物=穴である。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
内界にある自我の異郷 ichfremde Stück der Innenwelt statt。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
異者身体(われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger)(ラカン、S23、11 Mai 1976)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

究極の穴(=原トラウマ)あるいは異者身体とは、出産外傷によって喪われた母なる異者身体である。

例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

そしてこの外密としての対象a=穴のまわりの循環運動をするのが、われわれのセクシャリティの起源だという思考が、フロイト・ラカンにはある。

永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着(アタッチメントAnlehnung)に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

原誘惑者とは原「性的ハラスメント者」である。

ハラスメントの原義は侵入である。

彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年)

………

最後に「真のフェミニスト」カミール・パーリアを引用しておこう。

男たちは自らが性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、渇望しつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(カーミル・パーリア Camille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1990年)
私は全きフェミニストだ。
他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。
フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。(カミール・パーリア 、プレイボーイインタヴュー、1995年)
フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女 Mean Girls のようだ。…(連中は)私のことをフェミニストではないとまだ言っている。⋯⋯フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。(Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture、2013)