ーーこういった数字はみたことがなかったのだが、すこしまえ日本軍の戦死者数を調べたときに行き当たった。画像の大きさが調整できないので貼り付けるのをやめたのだが、小さいままでもやはり備忘として貼付しておこう。
フランスにおける第一次大戦の死傷者数135万人というのはやはりその人口比で考えれば、かなり大きな数字だ。もっともドイツの177万人があるが。
中井久夫はこう記している。
第二次大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会談にも外傷が裏で働いていたかもしれない。
では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
第二次世界大戦の死者はこうだ。
ドイツの「市民の死者数」が267万人とある。オーストリア93万人(うちユダヤ系市民65万人)とあるように、267万人のなかにはユダヤ系ユダヤがかなりの数をしめるだろう。だがそれだけではない(日本は80万人とある)。
ヒトラーの自殺後、ドイツは無政府状態となって軍人も市民も出会った米英仏ソ軍に降伏した。この「流れ解散」の間に十万人のドイツ人が殺されるか行方不明になった。日本の場合は「ポツダム宣言」があり、国外の軍には「勅使」が説得にあたった。
なお、敗戦後のドイツ人虐殺を遺憾としたのは数ある米将官中マッカーサー一人で、そういうところが彼にはある。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収)
ミズーリ号の左舷中央構造物に迫る特攻機の写真がある。凄絶である。なにゆえの特攻だったか。吉田満の『戦艦大和ノ最期』で士官の議論をまとめた臼井大尉は「新生日本にさきがけて散る。本望じゃないか」という。日本は敗北して一から出直すしかないところまできている、そのために死ぬのだ、自分たちの死の意義はそれしかない、というのだ。特攻隊の犠牲の上に今の日本があるとはそういう意味である。それ以外にはおよそ考えられない。
特攻機は無効ではなかった。米艦の乗務員は燃えるガソリンを全身に浴びる恐怖に脅え、戦争神経症を大量に生んだ。しかし、「では降伏しよう」に繋がらない。そして戦勝目前に死ぬほどつまらないことはない。米兵の憎悪を増幅した理由の一つである。
一九四四年末の「天王山」レイテ戦敗北後のわが国に勝算はなかったが、その時点では降伏を言いだせる「空気」はなかった。特攻隊員は時間稼ぎ、それも「空気」が変わる時間を稼ぐために死んだ。私は南米諸国までが次々に対日宣戦を行なう新聞記事を読んで、とうとう世界を敵に回したと思ったが、口に出せることではなかった。
最近暴露されている企業・官庁の不正は、それを知った従業員が「とても言いだせる空気ではなかった」にちがいない。重役会でもだろう。「空気が読める」ことが単純によいことではないのを記して、二〇〇七年のこのコラムを閉じる。(中井久夫「戦艦ミズーリと特攻機」(「清陰星雨」『神戸新聞』2007.12.29)
「日韓の対立が最悪の展開。原点は日本が朝鮮半島を植民地にして彼らに苦痛を与えたこと」(鳩山由紀夫、2019年8月23日)
「日本が戦争責任と正面から向き合わなかったことが問題の根底にある」(自民・石破茂元幹事長、2019年8月23日)
こういったことが「とても言いだせる空気ではない」などということになりつつあるのではないかとの心配が杞憂であることを祈る。
すくなくとも戦争にかんしては楽観論とはつねにあやういものである。
第一次大戦開始の際のドイツ宰相ベートマン=ホルヴェーグは前任者に「どうしてこういうことになったんだ」と問われて「それがわかったらねぇ」と嘆息したという。太平洋戦争の開戦直前、指導層は「ジリ貧よりドカ貧を選ぶ」といって、そのとおりになった。必要十分の根拠を以て開戦することは、1939年、ソ連に事実上の併合を迫られたフィンランドの他、なかなか思いつかない。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)
戦争が始まりそうになってからの反対で奏功した例はあっても少ない。1937年に始まる日中戦争直前には社会大衆党が躍進した。ダンスホールやキャバレーが開かれていた。人々はほぼ泰平の世を謳歌していたのである。天皇機関説は天皇の支持の下に二年前まで官僚公認の学説であった。たしかに昭和天皇とその親英米エスタブリッシュメントは孤立を深めつつあったが、満州や上海における軍の独断専行は、ある程度許容すれば止むであろうと楽観的に眺められていた。中国は軍閥が割拠し、いずれにせよ早晩列強の間で分割されてしまうのだという、少し古い認識がその背後にあった。しかし、いったん戦争が始まってしまうと、「前線の兵士の苦労を思え」という声の前に反対論は急速に圧伏された。ついで「戦死者」が持ち出される。「生存者罪悪感」への強烈な訴えである。平和への思考は平和への郷愁となり、個々の低い呟きでしかなくなる。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)
表に戻れば、ベトナムの餓死者というのは、その数の信憑性の疑義がネット上には落ちている。だがすくなくともかなりの量の米輸入を日本はベトナムからしている。
日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた「外米」はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔…〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)
死者の話とは関係がないが、「戦争研究家」中井久夫によるとても印象に残っている記述がある。
元商船三井監査役、熊谷淑郎氏によれば、戦争末期も末期、昭和二十年七月、病院船「高砂丸」が米駆逐艦の臨検を受けた。乗艦してきた米水兵は皆船尾に翻る日の丸に向かってきちっと敬礼した。若き乗務員の熊谷氏には「目のくらむような驚き」だった。この時期、日本では米英の国旗を踏みつけていた。米国に兜を脱ぎたくなるのはこういう時である。(中井久夫「国際化と日の丸」(神戸新聞 1991.12.26)『記憶の肖像』所収)
最後にこう引用しておこう。
戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)
ーー戦争の外傷性記憶があるうちはまだいいのである。
……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)