ボロメオの環の基本的な読み方は、次の通り。
青の環(資本)は緑の環(国家)を覆っている(支配しようとする)。
緑の環(国家)は赤の環(国民)を覆っている(支配しようとする)。
赤の環(国民)は青の環(資本)を覆っている(支配しようとする)。
ジジェク版だったらこうだ。
上のボロメオの環を現在の日本の国内的課題に当てはめてみよう。
だれもがこれを認めるはずである。
・財政赤字は国家を支配して、国家機関は負担増福祉減に促される。
・国民はその負担増福祉増政策に反発して負担減福祉増を訴え、財政赤字を無視しようとする。
・その結果、財政赤字は雪だるま式に増え、国家機関はいっそうの負担増福祉減に促される。
これからの日本のために 財政を考える、財務省、令和元年6月、PDF |
ーーこの財務省の「これからの日本のために 財政を考える」令和元年6月、PDFは、もう必死だね。なんとかわかってもらおうと。
「中福祉・高負担しかありえない日本」で、想田和弘、山崎雅弘をバカにしたけど、彼らは国民にのっかっているだけで、わたくしに言わせれば、典型的なポピュリズムリベラルってことだ。まともなインテリだったら三つの環を考えなくてはならないのに。
もし左翼ポピュリスト山本太郎の国内政策を支持するなら、MMTをマガオで信用するの? ということに収斂する。
こういっている人もいるがね。
MMTの実施は、これまで失敗したアベノミクスをさらに派手に推進するということ。円安も物価上昇ももう一段進むだろう。しかし、成長戦略なきバラマキでは、生産性は上がらず、名目賃金は上がっても実質的な生活向上は望めない。インフレが高まり、バラマキをやめるときには、日本経済は極端な不況に陥るか、それを恐れた政府がバラマキを続けて物価急上昇となるかのどちらかだ。株も土地も暴落し、中国企業が買い漁るが、それに対抗する日本企業は皆無となる。(古賀茂明「山本太郎の『MMT』理論はアベノミクスと本質は同じ」2019.7.30)
非基軸通貨国は、自国の生産に見合った額の自国通貨しか流通させることはできないのである。それ以上流通させても、インフレーションになるだけである。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)
ここで言う基軸国とは一体どういう意味なのでしょうか?ドルは世界の基軸貨幣です。だが、それは世界中の国々がアメリカと取引するためにドルを大量に保有しているという意味ではありません。ドルが基軸貨幣であるとは、日本と韓国との貿易がドルで決済され、ドイツとチリとの貸借がドルで行われるということなのです。アメリカの貨幣でしかないドルが、アメリカ以外の国々の取引においても貨幣として使われているということなのです。(岩井克人「アメリカに対するテロリストの誤った認識」朝日新聞2001年11月5日)
ま、いろんなことをいう人はいるけど、ようするに無責任でないようになってことだな。ケインズのいう「美人投票」が起こる必然性をもっている「成長戦略なきバラマキインフレ政策」ってのは歯止めがきかないはずだから。
現在のグローバル資本主義は、米国の貨幣でしかないドルを世界全体の基軸貨幣としているシステムである。それは、すべての貨幣と同様に、世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るから世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るという、あの究極の美人投票としての自己循環論法によって支えられている。(岩井克人『グローバル経済危機と二つの資本主義論』2009, PDF)
ようするにボク珍は全力をつくしていたのだと思い返すことのないようにな、ということだな。
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)
なによりもまず手始めに、ここで掲げた「これからの日本のために 財政を考える」令和元年6月、PDFと闘ってみることだね。MMTなんていうむずかしい話は後回しでいいので、こういった基本的なとってもわかりやすい資料をまず消化すべきだということだ。まともな人間だったらいままでに当然掠め読みぐらいはしているたぐいの資料だけどさ。
何がいいたいかというと、彼らは弱者擁護の「善意と誠実さ」に熱がこもりすぎて、こういった基本に対して「選択的非注意 selective inatension」に陥っていないかね、ということだ。
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1996年『アリアドネからの糸』所収)
ふたりともとっても正義の人なんだな。もちろん彼らだけじゃないけど。
一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年)
で、視野の幅が狭くなったあの連中は、ひょとして「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」の先鞭者じゃないかね、ってことだ。
財政的幼児虐待:現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いること。
財政的幼児虐待とは最も残酷な「未来の大衆いじめ」だよ(参照)。
あれらのごく基本的資料と闘った痕跡がないポピュリズムリベラルインテリってのは、ま、いわせてもらえば、知的銃殺刑に値するな。
たとえば山崎雅弘ってのは とてもリッパでとてもタダシイことを書いているひとじゃないか。
ある日をを境に、日本人の生活や価値観が、昨日までの「平和の時代」から一転して、国の存亡を賭けた「戦争の時代」へと激変したというような、あるいは白と黒とはっきり塗り分けられたような、わかりやすい「分岐点」は、そこには見当たりません。グラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、戦争という特別なものに染まっていたように感じられます。(山崎雅弘『1937年の日本人』2018年)
こういう人が、どうして財政破綻戦争突入間近である可能性に思いを至らないんだろ? 1937年には社会大衆党の躍進があったよな、ようするに社会ポピュリズム党の躍進だ。で2019年以降も社会ポピュリストの躍進がありそうな気配だろ?
この今になっても、「グラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、財政破綻という特別なものに染まっていた」ように感じられないんだろうか? それはそれは不思議でならない知的現象だな。
私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008年、PDF)