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2019年8月11日日曜日

想像力欠如の「美しい魂」

1919年生まれの吉岡実は、1941年(昭和16年)夏、満州に出征している。

砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる(吉岡実「死児」)


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え(同上)

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)


四人の僧侶 5 吉岡実

四人の僧侶
畑で種子を播く
中の一人が誤って
子供の臀に蕪を供える
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している
死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分に目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる境界は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)




「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)

いやあ、慰安婦話題でざわついているツイッターにはとんでもない、想像力欠如の「美しい魂」なる馬鹿女がいるな。血圧がまた上がっちまったよ。《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)

ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント『悪の陳腐さ』)


■Slavoj Zizek, MOVE THE UNDERGROUND! ,2004

バグダッドのアブグレイブ刑務所で起こっている異様な出来事についてのスキャンダラスなニュース、それが突然暴露されたとき、我々は、米国人が彼ら自身をコントロールしていないというまさにこの側面を瞥見することになる。



2004年4月の終りに公けになった米兵によって拷問され凌辱されたイラク囚人を示す画像、これに対するブッシュ大統領の反応は、予想通りに、次のことを強調している。すなわち、兵士たちの振舞いは、民主主義、自由、個人の尊厳の価値のために、米国人が表したり闘ったりするものを反映することのない孤立した犯罪であると。そして実際に、米国行政を守勢のポジションに置いたこのケースが公的スキャンダルになった事実自体が、ポジティブな兆候だ、ーーほんとうの「全体主義的」体制では、このケースは単純にもみ消されるだろうと。(……)




しかしながら、数多くの心をかき乱す特徴が単純な画像を複雑化する。この数ヶ月のあいだ「国際赤十字」は、イラクにおける米軍当局を定期的に責め立てていた。それは、イラクにおける軍監獄での虐待についての報告書をもって、である。そして報告書は意図的に無視された。というわけで、米国当局は何が起り続けていたかについての信号を得ていなかったのではない。彼らが飾り気なく犯罪を認めたのは、メディアによる情報の暴露に直面したとき(そしてそのため)のみである。



何も不思議ではない、再発防止方策が、米軍看守に対して、デジタルカメラとヴィデオディスプレイ付きの携帯電話の所有禁止だったことは。ーー(虐待)行為ではなく、その公けの流通の禁止というわけだ…。二番目に、米軍司令官の即座の反応が、控え目にいっても、驚くべきものだった。すなわち、兵士たちはジュネーブ条約の規則を正しく教えられていない、という説明だ。ーーあたかも囚人を虐待や拷問しないように教育しなければならない、とでも言うがごとく!



私はあのよく知られた画像を見たときーー頭を黒い頭巾でおおった裸の囚人の画像で、彼の肢には電気ケーブルが付着され、椅子の上に滑稽な演劇的ポーズで立っているヤツだーー、最初の反応は、これはマンハッタンの下町での最新のパフォーマンスアートショウのショットだというものだ。まさに囚人の姿勢や衣装が劇場風の構成、活人画 tableau vivant の一種のようであり、思い起さずにはいられないのは、アメリカパフォーマンスアートの全領野、あるいは「残酷劇」、メイプルソープの写真、デヴィット・リンチの映画の風変わりな場面…だった。



そしてこの特徴なのだ、事態の臍を我々に示してくれるのは。あの画像は、アメリカの生活様式の現実に慣れ親んでいる者にとっては誰にでもすぐさま、アメリカのポピュラーカルチャーの猥褻な裏面を思い起こさせる。そう、拷問と屈辱の入会儀式だ、閉じられたコミュニティへと受け入れられるための、人が耐え忍ばなければならないイニシエーション儀式である。

我々は、米国の出版物にて定期的な間隔で、似たような写真を見ないだろうか? それはたとえば、軍隊や高校のキャンパスでスキャンダルが暴発したときだ。そこでは、入会儀式がいき過ぎて、兵士や学生が許容されるレヴェルを超えて犠牲になる。屈辱的なポーズや下劣な仕草(たとえば仲間の前でビール瓶を肛門に突っ込まれるような仕草)を余儀なくさせられたり、針で突き刺されたり等々。(ついでながら、ブッシュ自身が、イエール大学の最も特権的な秘密結社、「髑髏と骨 Skull and Bones」の会員であり、彼はどんな儀式を忍んだのかを知るのは興味深いことだ…)。(Slavoj Zizek, MOVE THE UNDERGROUND! ,2004)



『方法序説』のデカルトの叙述にあるように、外国人の習慣や信念は、彼に滑稽で奇矯に見えた。だがそれは、彼が自問するまでだ、我々の習慣や信念も、彼らに同じように見えるのではないか、と。この逆転の成り行きは、文化相対主義に一般化され得ない。そこで言われていることは、もっと根源的なことだ。すなわち、我々は己れを奇矯だと経験することを学ばなければならない。我々の習慣はひどく風変わりで、根拠のないものだ、ということを。

文化固有の「生活様式」とは、ただたんに、一連の抽象的なーーキリスト教、イスラム教ーーの「価値」で構成されているのではない。そうではなく、日常の振る舞いのぶ厚いネットワークのなかに具現化されている。我々「それ自身」が生活様式だ。それは、我々の第二の特性である。この理由で、直接的「教育」では、それを変えることはできない。何かはるかにラディカルなことが必要なのだ。ブレヒトの「異化」のようなもの、深い実存的経験、我々の慣習や儀式が何と馬鹿げて無意味であり根拠のないものであるかということに、唐突に衝撃を受けるような。…

大切なことは、異人のなかに我々自身を認知することじゃない。我々自身のなかに異人を認めることだ。寛容という言葉が意味をもつなら、そこから始まる。(ジジェク,What our fear of refugees says about Europe, 2016年)



じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、Noël 1973)