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2019年8月12日月曜日

享楽の排除、享楽の固着、女性性の拒否

われわれは自我過程の統合を自明視しているが…この自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能 synthetische Funktion des Ichs は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。(フロイト『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang 』草稿、1940年)

用語だけの話だが、《心的装置における葛藤と分裂 Konflikten und Spaltungen im seelischen Apparat》(『快原理の彼岸』第1章、1920)という「分裂」を直接的に現わすだろう"spaltung"という語以外にも、フロイトは、"Zerfall" や"Dissoziation"を使っている。たとえば《心的生の分解(解離)の出現 [Zerfall (Dissoziation) des Seelenlebens hervorgehe.] 》(フロイト、Kurzer Abriss der Psychoanalyse、1928)

………

排除あるいは解離という語はじつに誤解をまねきやすい語である。

中井久夫は次のように書いている。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

排除の核心は排除(Verwerfung 外に放り投げる)ではなく、むしろ今引用した二番目の文にあるように排除の解除(戻ってくること)である。あるいは排除されたものが反復強迫することが核心である。

以下、この前提で記述する。


■享楽の排除 la forclusion de la jouissance

たとえばラカンはセミネール22でこう言っている。

・享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

・外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, S22, 11 Février 1975)

・原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

・神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

そして翌年のセミネール23ではこうだ。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

とすれば、《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》=女の外立(女というものの外立 ex-sistence de la femme)と言えるだろうか?

まずそれを吟味しよう。

ジャック=アラン・ミレールは2008年のセミネールに次のように言っている。

女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme、(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

シニフィアン=表象であり、女の表象の排除とすることができる。すなわち女というものの外立である。これが神の外立の本来的な意味とすることができる。

いま外立と排除を等価なものとして扱ったが、それはジャック=アラン・ミレールの次の文を読んで確認しておこう。

我々はこの拒否を、「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

ーーミレールは「享楽の排除 forclusion de la jouissance」と「享楽の外立 ex-sistence de la jouissance」を等置している。すなわち排除=外立である。

排除の最も基本的な意味は、中井久夫が指摘しているように、「外に放り投げる」である(参照:排除と固着 (Verwerfung und Fixierung))。

冒頭に引用した文を再掲しよう。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーサリヴァン用語では、女の表象の排除とは女の表象の解離である。

そして女を外に放り投げること、あるいは享楽を外に放り投げること、これが享楽の外立である(「女というもの」の意味合いは後述するが、ここではこう記しておくだけにする)。

どこからどこへ放り投げるのか。心的装置、象徴界、言語の外に放り投げる。現実界に放り投げるのである。すなわち、《外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence 》(Lacan, S22, 11 Février 1975)

そしてこの《現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)ものとなる。すなわち反復強迫である。


フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un-2/2/2011)

くりかえせば、排除とは何よりもまず象徴界から排除されるという意味であり、その排除されたものは現実界のなかに回帰する。

私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、…象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。

Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,… tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)

フロイトの表現の仕方なら、心的装置に拘束されない身体的なものは、エスという暗闇のなかに蠢き反復強迫するということである。

ところでミレール はこうも言っている。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

では、「享楽の排除 forclusion de la jouissance」は、「身体の排除 forclusion du corps 」と言えるだろうか。さてどうだろう? さらにこの「身体の排除 forclusion du corps」 と「女性の表象の排除 forclusion du signifiant de la femme」「享楽の排除 forclusion de la jouissance」を結びつけることができるだろうか。

ここでラカンにおいて、「身体の享楽 jouissance du corps」と「女性の享楽 jouissance féminine」、そしてファルスの彼岸にある「他の享楽」は同じ意味であることを思い出しておこう。ファルスの彼岸、すなわち象徴界外、言語外である。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre (=女性の享楽、身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

何よりもまずラカンにおいて、「女性=身体」、「男性(ファルス)=言語」なのである。これは(基本的には)生物学的男女とは関係がない。

ラカンには、この「身体の享楽 jouissance du corps」と相同的表現として、次のものがある。

穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

そしてこの文脈のなかにミレールの次の発言がある。

最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

すなわち《サントームの享楽 la jouissance du sinthome》(Jean-Claude Maleval , 2018)としての女性の享楽が、享楽自体である、と。

こうして「身体の排除 forclusion du corps」 =「女の表象の排除 forclusion du signifiant de la femme」=「享楽の排除 forclusion de la jouissance」が、まずは正当化される。いま「まずは」としてのはいくらかの保留があるからである。それは後に示す。

ここで、もう一つの問いである。

原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

すなわち、「原抑圧の排除」である。この排除は通念としての「父の名の排除」ではない。

父の名の排除から来る排除以外の他の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

この「他の排除 autres forclusions」こそ、セミネール22における「原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt 」=「原抑圧の排除」である。

ラカンは原症状としてのサントームについてこう言っている。

四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、…すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴 trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

こうしてサントームの排除(=享楽の排除)は原抑圧の排除と相同的表現ということが把握できる。


■享楽の固着 la fixation de la jouissance
 
さてここまでは実は前段であり、本来の問いはここから始まる。

現代ラカン派では、「享楽の固着」という表現がしばしば使われる。

欲動の固着(ゆえに享楽の固着)the fixation of the drive (and thus the fixation of a jouissance),(Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)
享楽の固着 la fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet, Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

ここでの問いは、「享楽の排除 la forclusion de la jouissance」と「享楽の固着 la fixation de la jouissance」はどう異なるのか。それとも内実は同じ意味なのか、という問いである。

享楽の固着とは、リビドーの固着(欲動の固着)の言い換えである。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

ラカンはこのフロイトの固着を身体の出来事と表現した。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

 ミレールはこれを次のように言い換えている。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30 mars 2011)

そしてこのサントーム=身体の出来事の簡潔な注釈はこうである。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽(身体の出来事)はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ーーすなわち「享楽はサントームである。サントームはトラウマの審級にある。サントームは固着の対象である」である。これがリビドー固着としての原症状である。

このリビドーの固着=享楽の固着は、ミレールの次の文を受け入れるなら、よりいっそう瞭然とする。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


■原抑圧=固着

さてここでまたいくらか迂回しよう。

ラカンはすでにセミネール1の段階で、次のように明言している。

抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation (Lacan, S1, 07 Avril 1954)

これは次のフロイトの叙述を基盤にしている。


原抑圧と固着
「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。

…欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇に蔓延り[wuchert dann sozusagen im Dunkeln]、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘すると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装いによって患者をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)



ーーラカンが原抑圧を穴とするとき、それはフロイトのいう「引力anziehenden Einfluß」の言い換えである。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


■女というものの原抑圧

ころで『夢解釈』以前の最初期フロイトは、フリース宛書簡でこう言っている。

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist(Freud, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

そしてラカンはこう言う。

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)

すなわち女の表象の原抑圧である。そして原抑圧=固着とすれば、女の表象の固着であり、これはミレールの言う「女の表象の排除 forclusion du signifiant de la femme」と等価である。

フロイトにもこの「女の表象の排除 forclusion du signifiant de la femme」と類似した表現がある。それは「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」である。

(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellungをとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)

そもそもラカンはフロイトのVerwerfungという語を、forclusion(排除)と決定訳する以前に、拒否に相当する訳語を当てはめている。




したがって、フロイトのいう「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」を「女性性の排除」と言い換えても何の奇妙さはない。

そしてここでの女性性の拒否とは、前文に《受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung》とあるように解剖学的女性ではなく、むしろ「受動性の拒否Ablehnung der Passivität」を意味している。

事実、フロイトは別の論文で次のように記している。


女性性と男性性(受動性と能動性)
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性理論三篇』1905年)
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』1931年)

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)



人はみな乳幼児期、母なる能動者に対して受動者なのである。そしてフロイトの考え方において、上にみたように受動的立場=女性的立場であり、人はみな原初の幼児期には女だということになる。これが原抑圧されているものである。

こうしてポール・バーハウによる比較的はやい時期における洞察を引用できる。

原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

バーハウはこう記しつつ、ラカンの原抑圧のシニフィアンS(Ⱥ)に相当する箇所に「受動性」を置いている。



そして繰り返せばこの原抑圧は固着である。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)

すなわち原抑圧とは、女性性の固着(受動性の固着)であるとともに身体的なものの固着である。これが上に記した「享楽の排除 forclusion de la jouissance=身体の排除 forclusion du corps」とすることができる。


■身体の排除 forclusion du corps = 異物 corps étranger(異者身体)

ところで排除された身体的なものを、バーハウは、異物と呼んでいる。

フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、すなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)

ここでもう一度、フロイトの『抑圧』論文を読んでみよう。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。

…欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇に蔓延り[wuchert dann sozusagen im Dunkeln]、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘すると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装いによって患者をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

固着によってエスに置き残されたものが、異物 Fremdkörper (異者身体 corps étranger)である。

トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger(異者身体)(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
女性性 féminité は、女たちにとっても異者 étrangère である。……

ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。………ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)

フロイトあるいはラカンにおけるトラウマとは、心的装置に吸収されない身体的なものを言う。これが異物=異者身体であり、この異物としての原症状(サントーム) が、原無意識として反復強迫を起こすということになる。

幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 」1916年)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは、…自己身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen であり、…疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

フロイトには固着という用語を使った次のような表現もある。

女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her,(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

以上により、フロイト・ラカンあるいはラカン派による次の表現群はとても似通った意味をもっているだろうことを示した。

■フロイト

リビドーの固着 Fixierungen der Libido
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma
女への固着 Fixierung an das Weib
母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter
女性性の拒否(排除) Ablehnung der Weiblichkeit
受動性の拒否(排除) Ablehnung der Passivität


■ラカンあるいはラカン派

享楽の固着 fixation de la jouissance
享楽の排除 forclusion de la jouissance
身体の排除 forclusion du corps
女の表象の排除 forclusion du signifiant de la femme
享楽の外立 ex-sistence de la jouissance.
原抑圧の外立 ex-sistence de l'Urverdrängt
女というものの外立 ex-sistence de la femme


これらがまったく同じ意味だというつもりはないが、それについてはシニフィアンの論理期のラカンに触れざるをえず長くなるので割愛。ここでの記述は主に1973年春以降の、身体の論理期のラカンを基盤にしている。

もっともこれらの表現が殆ど等価だと直接的に言っているラカン派にはいまだめぐりあっていないので、ひょっとしてわたくしの誤解があるかもしれない。したがって(あらためていうまでもないだろうが)あまり信用しないように。とはいえ上に示した文献から判断するかぎりこうでしかありえないという心持もある。ま、ようするにもうすこし用語的に考えてみようと思う手始めの記述である。

なお女性性の排除、受動性の排除とは、女性性、受動性が現実界のなかに回帰することであり、フロイト用語ではマゾヒズムの回帰でもある。

女性性/男性性
受動性/能動性
マゾヒズム/サディズム
自己破壊性/他者破壊性

享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

すなわち享楽の排除であり、享楽の固着である。